ワ七年及び一七五八年は不作で、比較的死亡が多かったように思われる。一七六八年の輸入の増加から判断するとすれば、この年もまた生産が少なかったらしい2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。ワルゲンティン氏がプライス博士に提供した追加表によれば、一七七一、一七七二、及び一七七三年はことに死亡が多かった3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。私がニカンデル教授から得た報告によれば、一七八九年の一年だけで一七九五年に終る二十年間の出生の死亡に対する平均比率が著しく変化するから、この一七八九年の死亡が非常に多かったにに違いない。すなわち右の比率は、一七八九年を入れると一〇〇対七七であるが、これを除くと一〇〇対七五である。これは二十年間の平均に対して一年の有無が作り出す差異としては非常に大きな差異である。最後に、私がスウェーデンにいた一七九九年は、極めて致命的な年であったに違いない。ノルウェイに接する諸州では、農民はこの年は未曾有の凶年であると云った。家畜は、前年の旱魃により冬期間いずれも皆極度に損害をうけ、そして収穫の約一月前の七月には、多数の人民は、樅の中味や乾《ほ》したすかんぽで作り、味や栄養をつけるために碾割《ひきわり》を少しも混じていない、パンで生活したのである。農民の蒼白い顔や憂鬱な外貌は、その食物の栄養不足を物語った。多くのものは既に死んでいたが、しかし、かかる食事による結果の全部は当時なお現われていなかった。それはおそらく後に至って何らかの伝染病の形で現われることであろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Me'moires de l'Acade'mie de Stockholm, p. 29.〕
 2)[#「2)」は縦中横] 〔Me'moires du Royaume de Sue`de, table xlii.〕
 3)[#「3)」は縦中横] Price's Observ. on Revers. Pay. vol. ii. p. 125.
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 スウェーデンの下層社会がかかる厳しい圧伏を忍ぶ忍耐力は、全く驚くべきものであり、これは、彼らの生存が全く自力に委ねられており、そして彼らは必然の大法則に服しているのであって支配者の気迷《きまぐ》れに服しているのではないと信じているからこそ、生じ得るものである。前述の如くに、たいて
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