生産された貨物の分量に依存し、生産に使用される器具を獲得することの難易とは何らの関係も有たないからである。一定量の衣服及び食料品は、それが一〇〇名の労働によって生産されたのであろうと二〇〇名のそれによって生産されたものであろうとに論なく、常に同数の人間を維持し雇傭し、従って同一量の仕事をなさしめるであろう。しかしそれらの物は、もしその生産に二〇〇名が用いられたのであるならば、二倍の価値を有つであろう。
(九八)セイ氏は、彼れの著『経済学』の第四版すなわち最近の版において訂正をなしたにもかかわらず、富と価値とに関するその定義は極めて誤っているように私には思われる。彼はこれら二つの語は同義であり、そして人は彼れの所有物の価値を増加し、多量の貨物を支配し得るに至るにつれて、富むと考えている。彼は曰く、『しからば所得の価値はもしそれが生産物のより[#「より」に傍点]大なる分量を――いかなる方法によろうとそれは重要ではないが――獲得し得るならば、その時に増加される。』セイ氏によれば、もし毛織布を生産する困難が二倍となり、その結果毛織布はそれと以前に交換された貨物の二倍量と交換されるに至るならば、その価値は二倍となるのである。これに対して私は全然同意する。しかし、もし諸貨物の生産にある特別な便宜があり、そして毛織布の生産は何らの困難の増加もなく、従って毛織布は前と同様に、二倍量の諸貨物と交換されるに至るならば、セイ氏は依然毛織布の価値は二倍となったというであろうが、しかるにこの問題に対する私の見解によれば、彼は、毛織布はその以前の価値を保ち、それらの特定の貨物が以前の価値の半分に下落したというべきである。セイ氏が、生産の便宜により、以前に一袋の穀物を生産したと同一の手段によって二袋のそれが生産され、従って各袋は以前の価値の半分に下落するであろうといいながら、しかも彼が、二袋の穀物と毛織布を交換する毛織布製造業者は、彼がその毛織布と交換して単に一袋の穀物を得たに過ぎなかった時の二倍の価値を取得するであろう、と主張する時に、彼は自家撞着に陥っているのでなければならぬ。もし二袋が以前の一袋の価値を有つならば、彼は明かに同一の価値を取得するに過ぎない、――もちろん彼は富の二倍量――効用の二倍量――アダム・スミスのいわゆる使用価値の二倍量を得るのであるが、しかし価値の二倍量を得るのではな
前へ 次へ
全346ページ中228ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
吉田 秀夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング