ニを、私に教えるかもしれない。
『議論に入るに当って、私は、一切の臆説を、すなわち正しい学問的根拠によればそれが実現するであろうとは考えられない仮定を、この問題から切離してしまうことを、前提しなければならない。ある論者は人は終《つい》には駝鳥になるものと考えると私に云うかもしれない。私はこれをうまい具合に否定することは出来ない。しかし彼が思慮ある何人かを同意見ならしめようと思うならば、彼は、人類の首は徐々として長くなって来ており、唇はますます固く大きくなって来ており、足は日に日にその形を変えており頭髪は羽毛に変りはじめているということを、まず証明しなければならない。そしてかような素晴らしい変化が本当に起っているということが証示されない中《うち》は、人間が駝鳥になれば幸福になるとしゃべり立て、その走力と飛翔力を述べ立て、人間は一切のつまらぬ贅沢を問題にしなくなり、生活必需品の蒐集にのみ当り、従って各人の労働分担額は軽微となり閑な時間は十分になる、と云ってみたところで、それは確かに時間つぶし議論つぶしに過ぎない。』
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 フランクリン博士は、動植物が密集しそして相互の生活資料を妨害し合うことから生ずるものを除いては、その出産性に対する限界はない、と云っている。彼は云う、地球の表面に他の植物がないならば、徐々としてただの一種たとえば茴香が蔓延して全土を蔽《おお》ってしまい、またそれに他の住民がいないならば、それは数世紀にして、ただの一国民たとえば英蘭人で充ち満ちるであろう、と1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] Franklin's Miscell. p. 9.
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 これは議論の余地なく本当である。動植物界を通じて、自然は生命の種子を、最も惜しみなく気前よく播き散らしたが、しかしそれを養うに必要な余地と養分とについては比較的これを惜しんだ。この土地に含まれた生命の種子は、もし自由にのびることが出来るならば、数千年にして数百万の世界を満たすであろう。だが、必然という、緊急普遍の自然法則は、それを一定の限界以内に抑制する。動物の種と植物の種とはこの大制限法則の下に萎縮し、そして人間も、いかなる理性の努力によっても、それから逃れることは出来ないのである(訳註)。
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