らも、五時閉店を固守して来たのであった。
それを今度は店員一同、店のために進んで時間延長を希望し、日曜祭日の夜の僅かな余裕も犠牲にしようというのである。私はこの一同の案を容れるとともに、七時以後の時間を甲乙二班に分って隔日交替とし、この時間における売上げの五分を、その日の当直店員に特別手当として支給することに決めた。
次に、各工場の職長に日本一の技術者を招聘《しょうへい》したいという私のかねての宿望を実現することになり、二月初旬には日本菓子部に荒井公平、洋菓子部に高相鉄蔵、食パン部に石崎元次郎の三君の入店を見ることが出来た。喫茶部の開設を決定したのもこの時であった。これで中村屋の陣容はやや整い、目前の不利な形勢に対しても、これならば恐るるに足らぬという自信を持つことが出来たのである。店員一同の奮闘もまためざましかった。果たして形勢|幾許《いくばく》もなくして回復し、その後売上げは急激な勢いをもって増大した。
翌三年三月、私は欧州視察の旅に上ったが、ちょうど船が台湾沖にさしかかった時、私に無線電信が入った。私は妻が病床にあるところを発って来て、絶えずそのことが気にかかっていたから、電報ときいてぎょっとしたが、恐る恐る開いて見るとそれは店から打ったもので、「売上げ二千円を突破す」という吉報であった。
そういうふうで、昭和三年は中村屋の素晴しい躍進を記録した年で、その売上げは三越支店開設当時に比し、優に二倍を超過した。この意味において三越の新宿進出は、中村屋を一人前に育ててくれたものとして大いに感謝に値するのである。
純印度式のカリー・ライス
中村屋の喫茶部開設については、その二、三年前からすでに気運が動いていた。今日でこそ新宿には多くの喫茶店が軒をならべ、各々その特色を発揮して景況いよいよ盛んだが、昭和二年にはまだ喫茶店らしいものは一軒も見当らなかったのである。しかし土地が次第に賑やかさを加えるにつれ、自然茶をのむところの必要も感じられ、中村屋のお得意からもちょっとした小休み程度の喫茶部を設けてほしいがという希望はたびたび出ていた。
しかし私は、喫茶のような丁寧なお客扱いは容易に出来るものでないからと独りぎめにきめて、それまで手をつけなかったのであるが、婿のボースが、彼の祖国印度に対する日本人の認識の誤りがちなのを歎き、中村屋で喫茶部をおくならば、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために、自分はぜひ印度のカリー・ライスを紹介したい、現在世間でライス・カレーと称して行われているものは、もとは印度から出て世界中に拡まったものだが、日本では次第に安い材料を用いるようになり、今では経済料理の一種としてひどく下等になっている。印度貴族の食するカリー・ライスは決してあんなものではない。肉は最上級の鶏肉を用いるのであるし、最上のバターと十数種の香料を加え、米もまた優良品を選んですべて充分の選択の上に調えられる最上の美味である。と熱心に喫茶部開設の希望をした。ボースはすでにその妻を失っていたが、その亡妻俊子は私の長女であった。英国政府の迫害の中にある印度志士の彼に嫁した俊子は心労の果てに若死したが、それ以来印度というものに対する我々が親愛の情もまたひとしおに深いわけであって、ボースの印度料理案が出るに及んで心動き、ちょうど店の新計画と一致して、いよいよ昭和二年六月喫茶部開設となり、同時に印度式カリー・ライスを公開したのである。
果たして純印度式カリー・ライスは、洗練された味覚を持つ人々によろこび迎えられ、現在いよいよ好評であるが、純印度式であるとともに我々日本人の口にあうように、またその最上の美味を出すためには、一通りならず苦心した。まず問題は米であった。カリーに用いる米はカリーの汁をかけるとすうっと綺麗に平均して、よく浸み透るのでなくてはならない。初めは本場の印度から取り寄せて見たが、一斤(約三合)五十銭につき、見た眼にはじつに美事であったが、その味は日本人に向かなかった。
そこで、先に新兵衛餅を教えてもらった畑中氏をまたまた煩わすと、氏はカリーに最も適当する白目という米のあることを教えてくれた。
『維新前、江戸は美食を競うところであって、ことに各藩の勘定方など、価の高下を問わず美味三昧を誇りとしたものであるが、この人たちは好んでこの白目米を用い、また一流の鳥料理、鰻屋にはぜひともなくてならぬ米であったから、他の一等米に比しておよそ三割方の高価であったが、毎年三千俵の売行きがあったものだ。維新とともにそういう微妙な舌の持主は落魄し、にわかに粗野な地方人の天下となったのであるから、爾来白目米を味わい分ける者もなく、今日では僅かに当時の百分の一くらいが用いられるだけで、それすら年々減少する傾あり、この珍品白目米も遠からず種切れとなる恐れがある』と。
私は畑中氏からこれを聴いて、我が中村屋のカリー・ライスのためにぜひともこれを復興させねばならぬと感じ、早速産地埼玉県庁に照会して、時の産業課長近藤氏の賛助を得、農会長の肝いりで十二人の老農を選択してもらい、一等米より二割高で引き取ることを約束して、白目米三百俵の栽培を頼んだ。これが現在中村屋のカリー・ライスに用いている米である。明治初年、文人画家として令名のあった奥村晴湖女史は、古河藩の家老の娘として生れ、一生を美食で通したというが、女史は白目以外の米は口にしなかったそうで、実際白目米には他のいかなる米も及ばぬ味がある。私はこういう良い米を復興し保存し得たことをよろこんでいる。
次はカリー・ライスの鶏肉、いかにして良き鶏肉を得るかということであった。私は欧州視察中パリの食料品市場を見て、鶏肉に大変な価格の開きのあることを発見した。下等品と最上品では一と四の割合であった。私は日本ではせいぜい一と二ぐらいの違いであったと思っていたから、フランス人がそこまで肉の優劣を味わい分けるのに感服し、帰朝の上は自分もフランスに劣らぬ優良鶏肉を作り出し、中村屋のカリー・ライスを一段と向上させなければならぬと考えた。しかしそういう知識の全くない私のことである。どうすれば最上の肉が得られるか、見当もつかない。よく肥えた最上の肉を納入せよと鳥屋に命じるだけであって、それ以上立ち入ることが出来なかった。するとある日一人のお客様が私に対して、
『お店のカリー・ライスはじつに美味しいが、惜しいことには肉がなってませんね』
さてはと思って私はなおくわしく肉の批評を乞うと、
『この肉は鶏舎飼いの鳥で、普通品です』
『いや、優等の肉の筈です』
と私が答えると、
『色が白くて、やわらかで味のないのが鶏舎飼いの証拠ですよ。上等の地どりなら色が赤くてもっと締って、味もはるかに優っている筈です』
そこで私は鳥屋を呼んで、
『最優良品という条件で、値も高く買っているのに、鶏舎飼いを納めるとは怪しからんではないか』
と詰問した。すると鳥屋は恐縮して、
『毎日これほど多数お使いになるのですから、地どりの上等だけで取り揃えることは困難なのです。時には御註文だけ揃わないことがあって、致し方なく普通品の中から上等のものを選んで混ぜることにもなりますが、どうか御辛抱を』
という。
それから私はこれまでの鳥屋まかせを改めて、専門の人々にも訊き、本格的に鶏肉の知識を漁った。江戸時代の第一流といわれた鳥料理店では、この原料の優良なものを集めることに非常な苦心をしたものだそうで、優等品は並品の三倍以上もするということが判った。しかし優良な地どりでも、フランスで四倍の高価を保っている肥育鶏にはやや劣る。で、この肥育鶏を用いることが出来れば申し分ないのだが、肥育鶏は今より十五年ほど前、岩崎家が千葉の末広農場で試みられたのが日本における最初で、この肉は当時外国公使館などで歓迎されたが、僅か数年の試験に五、六万円の赤字を出し、ついに中止されたとのことであった。しかしその後も、英国帰りの伴田という人が蒲田町でやっているということが判った。
私は伴田氏の鶏舎を訪ねていろいろ実状を調べたところ、丸鳥で百匁七十銭程度に取引きされて、当時の並鳥二十銭に対して三倍半の値で、フランスの四倍にやや接近していたが、ここの肥育鶏は惜しいことに種々雑多の種類を集めたもので、味が平均せぬ憾みがあった。私はこれをさらに一歩進めて食用鶏として最も味の優れている軍鶏《しゃも》の一種とし、自分の手で飼育すれば完全なものが得られるのだという結論に達し、そこで初めて山梨県に飼育場を設けたのであった。
飼育場主任としてこの仕事に当った河野豊信氏は、農林省の畜産試験場で養鶏の研究をしていた人で、ここに初めて本格的の肥育が試みられることになった。その後年々需要が増加し、そこだけの設備では供給が出来なくなったので千葉県に移転し、これでようやく一年間を通じて同じ優良鶏肉を供給し得る、完全な飼育場を持つことが出来たのである。
こうして私のパリ以来の懸案は解決されたが、初め考えたよりもその実行ははるかに困難であった。カリー・ライスが好評なのでその後お客様から、『もし中村屋でビフテキを食べさせるならきっと最上のものが出来ると思うが、やって見ないか』というお勧めも出たが、私はその原料精選のことを考えて、今もって手を出し兼ねている。今日最上の牛肉は多く一流のスキ焼店に買い占められて、市中の肉屋の手に入ることはきわめて稀れである。それでは中村屋が真に美味しいビフテキを提供しようと思えばやはり軍鶏同様、自家経営で数百頭の牛を肥育するよりほかないのである。こう考えるから喫茶部にさらに一品の料理を加えるのもじつに容易でないのである。
かつて石黒忠悳翁が明治初年の頃、八百善に行き、鯛料理を註文したところ、主人が出て『ここ数日、鯛が品切れでございます』と挨拶した。『それでも昨日某鯛料理店では百人ほどの膳に鯛をつけたが』と翁が怪しむと、主人は『地鯛なら何程でもありますが、手前のところでは興津鯛を用いますので』と。翁はこれをきいて『なるほど、さすが八百善だ』と感心されたということであるが、一流料理店の苦心の一通りでないことはこれによっても察しられる。
印度志士の問題
印度人のボースが私の聟《むこ》となり、日本に帰化し、中村屋の幹部として働くようになった因縁については、妻がすでに「黙移」の中に詳しく書いているから、それを参照してもらうことにして、私はむしろ「黙移」を補足する程度にごく大略を述べることにする。
ボースは印度ベンゴールに生れた。階級の厳重な印度で彼の家は四階級の第二なる王族階級であった。彼は十六歳の時父のもとを離れ、祖国を英国の圧制より救わんとする革命運動に投じ、そのうちにラホールにおいて印度総督に爆弾を投じて以来、英国政府は彼の首に一万二千ルピーの懸賞金を付していた。
しかも彼は巧みに英国の魔手を逃れ、大正四年六月日本に亡命した。英国政府も彼が日本に入ったことを察知し、内々探査を進めていたが、その年十一月、在日本の英国官憲はついにボースを発見、日本政府に迫って彼を国外に追放せしめようとした。しかしこういう政治犯は各国ともにこれを保護する習慣であるし、現に英国自身国際的先覚者をもって任じ、その本国では各国の亡命客をどこの国よりも多く保護しているくらいであるから、ボースを印度革命の志士だと言ったのでは、日本に対し目的を達することができない。そこで苦肉の策を案じ、ちょうど欧州大戦中であったから、ボースを世界の敵なる独逸《ドイツ》の秘密探偵として日本に潜入したものであるとなし、彼が日本から追われて領外に出るのを待って殺そうという計画を立てた。大英帝国ともあるものがじつに卑怯千万な話であったが、当時我が政府の外交に当る人々は、欧州列強に対し甚だ弱気で全く受身であったから、こんな侮蔑的要求をも拒否することが出来ず、ボース及び同志グプタの両志士に対し、一週間以内に国外へ退去することを命じた。
このことが聞えると、言論機関は一斉に立って我が軟弱外交を攻撃し
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