、気骨ある志士は猛然とこれを論難した。とりわけ頭山満翁を頭目として犬養毅、寺尾亨、内田良平、佃信夫、中村弼、杉山茂丸等数十名の同志は我が国の独立的体面を守らんがために政府に抗し、自ら躬《み》をもって両志士の生命を保護しようと盟《ちか》い、そこに必死の猛運動が起されたことはいうまでもない。しかし当局は英国政府の手前、退去命令を撤回することが出来ない。そのうちに一週間の期限も迫って第六日目となり、十二月一日、今や同志の生命は風前のともしびとなった。
我ら夫婦もこれを日々の新聞紙上で承知して、志士の身の上が気の毒であり、また国家としても独探などとは口実と知りつつ他国の強要に従わねばならぬとは、何という残念なことであろうと考え、同志者の骨折りも水泡に帰して、彼ら二人もいよいよ明日は死地に赴くのかと感慨に耽る中にも、まだまだ最後ではない、何とか急に道が開けるかもしれないという気がしていた。すると偶然そこへ中村弼氏が買物に見えた。私はすぐに、どうなりましたかと訊ねた。氏は憮然として『絶望』だという答であった。私はその時どういうふうに言ったかおぼえていないが、家の裏に美術家たちのいた画室が空いているし、また我が家は外国人の出入りも多く年中雑然としているから、こういう所なら同志を匿《かく》まえるかも知れないという考えを、自ずと中村氏に洩らしたものであった。
万策尽きた際とて、これが中村氏から同志の人々に伝えられ、あらためて頭山先生からお話があって、ボース、グプタの二氏を私に託されることとなった。
その晩大きな黒い男二人は、退去の挨拶にまわった頭山邸から闇にまぎれて姿を消してしまった。警視庁の狼狽は一通りでなく、たちまち上を下への騒動で、大がかりな捜索をしたが、どうしても両人の行方は判らない。英国大使よりは、有名な日本の警視庁ともあるものが、色の異った大男二人を帝都の真ん中から取り逃して、行方が判らないなどとは奇怪至極だ、これは日本政府の八百長に違いないといって、毎日幾回となく外務省へ詰問的照会をする。その折衝に当った外務省の木村鋭市氏は、後に私に会った時『君のために三、四年の寿命を縮めた』と言われたが、私としてもあの厳しい捜索の中でよく匿し了せたと思い、氏の述懐をきくにつけてまたさらに感慨を深うした次第である。
こうしてボース氏を匿まうこと四ヶ月半、その間に英国はますます猜疑の眼を光らし、態度はますます露骨になり、日本に対し無礼の事柄が少なくなかったので、さすが事勿《ことなか》れ主義の石井外務大臣もついに勘忍袋の緒が切れたのであろう、俄然態度を硬化し、両志士を秘かに保護する決意を告げて、頭山翁に面会を求めて来た。それは大正五年四月十五日のこと、会見の場所は四谷見付の三河屋であった。今はもうなくなったが三河屋は当時東京一の牛肉屋で、座敷も相当立派であったし、まだ明治気分の残っている時代のこととて、スキ焼を囲んで毎度知名の士の会合の場所となったものである。
そこでボース氏の身柄もようやく安全となって、我々の手許を離れることになったが、この四ヶ月余の滞留で我々夫婦と彼とは親子のような情味を感ずるようになり、その後頭山先生の切望によって娘の俊子を彼に嫁がせた。したがってボースと中村屋との関係はいっそう密接となった次第である。
いま一人のグプタ氏は我が家に滞留中行方不明となり、メキシコに亡命したと言われている。
露国の盲詩人とルバシカ
喫茶部では、純印度料理のカリー・ライスのほかに、露西亜料理のボルシチュを出し、また店員の制服はルバシカで、商品には露西亜チョコレートがある。これら露西亜物の因縁については、盲詩人エロシェンコのことを語らねばなるまい。
妻は昔から文学好きで、私のところに来る前から黒光の名で何か書いていたが、特に露西亜文学に興味を持ち、早稲田の片上伸氏、昇曙夢氏、若くして死んだが桂井当之助氏などと親しくし、また在留の露西亜人で遊びに来るものが多かった。エロシェンコは初め神近市子氏の紹介で来たが、彼は盲学校に学ぶために日本に来たところ、その後に起った本国の革命騒ぎで送金が絶えて困っているということであった。我々は彼が盲人の身で異郷に来て寄る辺もないのを気の毒に思い、かつてボースを匿《かく》まった画室に住まわせて、二、三年の間、家の者同様に不自由な彼の身のまわりの世話などしてやっていた。
彼は四歳にして失明し、光明を仰ぎ得ずに成長したからでもあろうが、見るところ著しく不平家であった。後、暁民会の高津正道氏等と交際するようになり、当局からボルシェヴィキの嫌疑を受け、退去命令を発せられて日本を去ったが、我ら夫婦は彼が滞留中の日常を通じて露西亜の衣食住に対し新たな興味を持ったのであった。ついに大正十一年六月ハルピンまで出かけて行って、露西亜料理や露西亜菓子を味わい、初めてそのうまさに驚いた。すなわち喫茶部開設に当って、カリー・ライスに対し露西亜のスープであるボルシチュを加えることにしたのである。
エロシェンコは常にルバシカを着ていた。我々はそれを見て洋服よりもはるかに便利でかつ経済的であることを知り、店の制服として採用したのであった。有名なトルストイ伯も常にルバシカを愛用したと聞いている。
今日でこそルバシカは珍しくもないが、中村屋で採用した当時はずいぶん目に立ち、ロシヤ服を着ているという廉《かど》で店員が警察に引き立てられたことなどもあった。
エロシェンコの退去問題で警察と中村屋の間に一騒ぎあったことは「黙移」にも記されているが、私もまたここに自分のおぼえを書いておこう。それは大正十年五月のことである。警察が私の家からエロシェンコを引き立てようとした時、私は彼の保護者としての立場から当局と折衝して、『今日はすでに日没後でもあり、かつ行政処分は夜中に執行すべきものでもないから待ってもらいたい。明朝八時、私が彼に付き添って警察に出頭します』と保証したにもかかわらず、警察ではその夜の十時過ぎ、三十二名の警官が隊をなして私の家を襲い、この一盲人を引致し去った。その際警官隊の行動は狼藉を極め、争って屋内に闖入《ちんにゅう》し、私や妻の室まで土足で踏み荒し、言語道断の暴れようをして行った。
私は警察の不法に驚き、忠良なる日本臣民としてこれを許しておけることでないと思った。私は滅多に怒らないが、この時は真に公憤を発したのである。
翌早朝淀橋署の刑事主任が来て、前夜の無礼を陳謝し、署長も恐縮して、後刻お詑びに来るからという。私は署長が真に反省してあやまりに来るのならば、将来をよく戒めて公の手段を取ることは見合わせようと考えた。しかし署長はとうとう顔を出さず、この事件の始末に対し全く誠意のないことが知れた。
そこで私は、警察官が乱入した際に落して行った眼鏡や手帳などを証拠品として、淀橋署長を相手に家宅侵入の告発をした。弁護士や友人たちは、警察を相手取っての訴訟は将来営業上に何かと祟られて煩《うる》さかろうから、思い止ってはどうかと忠告してくれたが、私はそういう意味で泣き寝入りする者が多く、ためにいっそう官憲の横暴が高まるのであると考えたので、多少の犠牲は覚悟の上で断然出訴したのであった。
その結果は、淀橋署長|黒葛原《つづらはら》氏の辞職となった。私もそれ以上の追及は気の毒と考えたので出訴を取り下げ、三十二名の警官たちに対しては、彼らはただ署長の命令で行ったまでのことであるから、別に問題としなかったのである。
黒葛原《つづらはら》氏は去ったが、幸いにして私の真意は警察側に通じ、怨恨を残すどころか、これによって警察と中村屋は事件前よりかえって理解を進めた形となった。真剣に対立して見て初めて誠を感じ合ったというものであろう。
警察側がただ一人の盲人を連れ行くために、夜中三十二名の警官を動員したなどは全く常識の沙汰でないが、これはボース事件の記憶からこのたびも私がエロシェンコを匿しはせぬかとの疑念から出たものであったろう。しかしそれとこれとは全然問題の性質が異い、エロシェンコに対しては私は最初から国法に服従せしめる方針をとり、その態度は自ずから明白であったのである。ただ警察は疑心暗鬼にとらわれたのであって、思えば黒葛原氏も気の毒なことであった。
ボース事件も、この黒葛原氏が麻布署長の時代であったというが、同氏と中村屋とはよくよく因縁が深かったものだと思う。
月餅の由来
月餅も支那饅頭もこの頃では世間に広く行き渡ったが、私は先年支那に旅して初めてこれを味わい、支那みやげとして売り出したものであった。
私が妻と支那見学に赴いたのは、昭和二年十月、ちょうど新宿に三越支店が乗り出して来た秋であった。当時支那は張作霖の全盛時代で、幣原外相の軟弱外交に足下を見透かされてか、日本人は至るところで馬鹿にされていた。私が奉天北京間の一等寝台券二枚を求めると、その一人分の室は満州兵のために横領され、我々両人はその一夜を寝ずに過ごさねばならなかった。もっともこんな目に遭ったのは我々ばかりでなく、白耳義公使が北京郊外の明の十三陵見物に行って、匪賊《ひぞく》のために素裸にされた事件もこの当時であった。
そんなわけで、我々がぜひ見たいと思って行った大同の石仏も、そちらはことに危険だからと留められて、ついに見ずじまいで帰って来たが、北京では坂西閣下や多田中将(当時中佐)の斡旋で、宮殿も秘園も充分に見学し、僅かな日数ではあったけれど、とにかく老大国の支那というものの風貌に接することが出来たのは幸いであった。
この北京見物においても私の興味を惹いたのは、北京城内にある大市場であった。南北二十五町、東西十町ぐらい、その広大な地域に数千戸の商店が軒をならべ、市民の生活に必要なものはことごとく揃っており、各種の遊戯場、温泉、料理店、全くお好み次第の盛観で、しかもこの地域には雨も降らず、風も吹かず、煩わしい馬車の通行もないのであるから、これは全く平面的大百貨店であった。
当時この市場の近くに、近代的な高層建築の百貨店が出来ていたが、この方は至って淋しく、この大市場は殷賑《いんしん》を極めており、興味ある対照をなしていた。
聞けばこの市場の販売力は、北京住民の必需品の約四割を占めるということであったが、その偉観には私も思わず驚嘆の声を発した。当時私は小売店の死命を制する百店貨に対して真剣に研究を進め、百貨店視察のために欧州に行く前でもあったから、特にこの市場に注意を惹かれたのであった。
この旅中に日本人の一|喇嘛《ラマ》僧に会い、支那では古来八月十五夜に「月餅」と称する菓子を拵え、これを月前に供えるとともに、親しい間に盛んに贈答が行われるという話を聞き、何となく彼我風俗の相似するのを感じて、我々はこの新菓をばこの旅行記念として日本への土産にしようと決めた。日本の十五夜に支那の月餅を売る、これもいささか日支の間に融和を図るものではあるまいか。
ここに月餅の由来につき興味ある話があるから、少しこれを語ろう。
明の時代のこと、蒙古から支那に伝来した喇嘛《ラマ》教が盛んになって、喇嘛僧の勢力が増大するにつれ、弊害百出し、社会を毒すること極度に達した。心ある人々これを憂い、饅頭の中に回章を秘めて同志の間に配布し、八月十五日の夜志士ら蹶起《けっき》して喇嘛僧を鏖殺《おうさつ》し、僅かに生き残った者は辛うじて蒙古に逃れ、支那には全く跡を絶った。しかし冠婚葬祭のすべてを喇嘛教の宗教的儀式によって行っていた長い間の習慣はなかなか消えるものでなく、秋至り十五夜を迎うるごとにいまさらの如く彼らをしのび、また回章を封じて配った饅頭の故事を記念して年々この菓子をつくり、贈答するに至ったもので、明月に因んでこれを月餅と称したのであるという。
中村屋でも初めはこれを八月の一ヶ月だけ売ることにしていたが、一方支那饅頭の好評とともに、月餅を愛好される人も年々増加するので、その希望に従い、今では年中製造して売ることに改めたのである。
[#改丁]
若
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