、功労ある店員十名の間に分配した。
中村屋が全株の半分を主婦の所有としたについては、一通りその理由を説明せねばなるまい。私はこの会社組織に改まると同時に社長となったが、本郷中村屋の初めからここに至る二十年の長年月、中村屋の名義人は私ではなくて相馬良であり、同時に彼女が事実上の責任者であった。創業当時私は郷里に蚕種製造の仕事を残して来ており、これがために毎年三ヶ月は郷里に帰り、パン屋として最も忙しい夏期をいつも留守にしていたのであった。また日本蚕業会社の重役としておよそ十年間はこれに関与していたから、中村屋のために専心働いたのは後の五年だけであった。それゆえ中村屋の基礎を築いた創業以来の十五ヶ年は、店は全く妻の双肩にあった訳で、中村屋の今日を成したものは大部分彼女の力である。元来小売商売は男子よりもむしろ主婦の活躍舞台であって、同業者の中でも本郷三丁目の岡野さん、本所の寿徳庵さん、銀座の木村屋さんなど、揃いも揃って主婦の働きによって今日の大を成したものである。私の妻は生れつきの熱情をこの環境に傾け尽したのであって、齢ようやく定まるに及んで病弱の身となったのにも、若き日の苦闘のほどは察しられるであろう。株分配の期に当りその功労を第一とするは、中村屋として当然のことであった。
株式組織となるとともに十二年四月末日、我々家族は麹町平河町に住居を移し、新宿の家は全体を店として使うことになった。
関東大震災とその教訓
数えてみると今年はもうそれから十五年になるが、あの関東大震災は、我々が麹町に移ってから五ヶ月目の九月一日であった。当時の惨状はいまさらここに語るまでもないが、人口三百万を擁した東京市は、僅かに山の手の一部を残して他は烏有に帰し、交通機関はことごとく破壊停止し、多くの避難民は住むに家なく食うに食なき有様であった。
中村屋は幸運にもこの災難を免れたが、電気も瓦斯《ガス》も水道も止ったのだから、パンも菓子も製造することが出来ない。しかし店頭には食なき人々が押し寄せて、パンはないか菓子はないかと求める有様に、私は商人の義務としても手を束ねていられる時ではないと思い、手のかからぬ能率的なものをと命じ、瓦斯も電気も水道も役に立たぬ中で、全員必死の働きをもってつくり出したのが、今も年々その日に記念販売をするいわゆる地震パン、地震饅頭、奉仕パンの三品であった。僅かにこの三品ではあったが、これだけでもただちに製造して間に合わせたのは中村屋だけで、したがって製品は、日本銀行の金庫を護る兵士たちのおやつにもなれば、さらに惨状の酷い横浜からもはるばる買いに来るという次第で、拵えても拵えても間に合わず、半日の製品が一時間の販売にも足りないという状況であった。
余震は頻々として来たり、ぐらぐらと震動する工場の中は、尋常の心持ではとても仕事の出来るところではなかった。しかし店頭に山なす人々の要求を思えば、危険を顧みる暇もない。全く昼夜兼行全店員よくあれだけの働きが出来たと思う。夜半に中村屋の煙突から火の子が出たのを見て、誰しもこの折柄で昂奮していて、驚破《すわ》また火事よと駆けつけ『何だ中村屋か、人騒がせをしやがる』と腹を立てた人もあった。しかしそれを制して『中村屋は徹夜してパンを焼いてるんだ、この際これがただの商売気で出来ることかい』という多くの声があり、やはり心から心へ通じて真に涙ぐましいものがあった。当時下町の問屋はことごとく焼失して、材料を仕入れようにも残っていない。山の手の商店にあった僅かな品もたちまち引張り凧でからからになり、食料品缶詰は倍値に売られ、一袋四円の小麦粉が十六円まで奔騰した。
私の店でも二日ほどで原料の砂糖と粉が切れてしまった。そこで至急使いを江東の大島方面に派し、砂糖会社と製粉会社に交渉した。するとこれらの会社では、問屋からの註文は絶え、地方への輸送の途も断たれていた矢先とて、大いに歓迎して、従来問屋から仕入れた値よりもかえって格安に売ってくれた。
荷馬車数台に満載した砂糖と粉が店頭に着いた時は、『ああこれで原料の不安が解消した』と、思わず全員飛び出して万歳を叫んだ。この荷が手に入ったので私は店頭に張り出して、罹災者の方々へは小麦粉を原価の四円で分けて上げることにし、製品のパンや菓子も従前よりはおよそ一割方安く売ることが出来て、罹災者を初め物資欠乏の中にある人々へ、我が中村屋がいくらかでも務めることが出来たと思うと、私はじつに嬉しかった。
何しろあの大震火災のことで、私の方も災禍を免れたといっても相当の損害はあったが、それも世間から見れば口にして言うほどのものでなく、一人の負傷者さえも出さなかったことは、全く神仏の加護によるものだと真実有難く思い、それがこの原価販売となっただけのことであったが、震災を一転機として店の売上げがたちまち三、四割方の増加となったのには驚かされた。後で耳に入ったところによれば、多くの店が幾割かの値上げをした際に、私の方が平常よりも勉強したことが特に目立ち、中村屋に好感を持って下さる方がふえたのだということで、私はまたここに天祐の上の天祐を感じ、罹災してついに立てなくなった人も多い中に何というもったいないことであろうと思った。
それゆえこの大震災は、中村屋にとっては重々記念すべきであって、毎年九月一日には震災記念販売をし、当時の店員一同の働きをしのび、その三品をそのままの形で出して原価販売をする慣例となった。すなわち震災記念販売は中村屋の年中行事の一つとなり、お得意でも当時を思い出して、当日は特にわざわざ店を訪ねて下さる方が多く、それらのお客様としても記念販売の三品は、一種異なる愛着をもって年々変りなく迎えられている次第である。
ウルスス氏と中村屋牧場
ある日、西郷隆盛然たる一壮夫が私を訪ねて来た。大正十五年春のことである。
『私は北海道のトラピスト修道院に教頭をつとめて居りましたが、教義上のことで羅馬《ローマ》法王と争い、破門されて本日上京致しました。他に身寄りもありませんからなにぶん宜しくお願いいたします』
紹介者もなく前触れもない全く突然の訪問であったが、我々には何となくこの仁が面白く思われ、一つにはかねてひそかに関心を持っているトラピスト修道院にいたというのにも心惹かれて、それ以来彼和田武夫氏は我が家の客となった。
妻は彼を綽名してウルスス君と呼んでいた。ウルススとはシエンキエイッチ作「何処に行く」の中に出て来る巨人で、暴帝ネロの眼前で猛牛を圧殺して姫君を救うというその面影に彼が似ているというのであった。
私はウルスス君を眺めていろいろ考えたが、菓子屋の中村屋にはこんな巨人に向く仕事がない。彼も自発的に巡査を志願して試験を受けに行った。どういうことを試験されたかと訊くと、
『富士山の高さは何程あるかと訊かれましたから、私は登ったことがないから知りませんと申しました。それから、泥棒を捕えた時はいかにすべきかと言いますから、私は、泥棒には将来を戒めて逃がしてやります、世間には泥棒などより悪いことをする奴がたくさんあります、その奴らを捕えないうちは小泥棒などは許してやるべきだと答えて来ました』
これではもう落第に決まっていた。そこで、
『君は宗教のこと以外に、世間の仕事を何か知っているか』
と聞いて見ると、彼は修道院において、ジョアンという世界的農学者(現在オランダの農科大学長をしている)から牧畜のことを学びましたということであった。
ちょうどその頃、私は四男の文雄を南米ブラジルにやって、そこで彼の新天地を開拓させようと考えて、文雄もこのことを喜び、南米行の予備教育を受けるために、日本力行会(故島貫氏創立)の海外学校に在学中であった。そこで私が考えるのに、海外に移民する日本人が牧畜の知識を持っておらぬのが最大の欠点で、これがあれば彼地での発展に大いに役立つであろうと思われた。すなわち当時の力行会長永田氏にこのことを話し、乳牛持参の牧畜教師を雇ってくれますかというと、永田氏も大いに歓迎するということであった。私は早速七百五十円の乳牛一頭を買い、校庭に牧舎とウルスス君の住宅とを新築して、彼を学校に送った。
ところが僅か二ヶ月で、海外学校にウルスス君を中心として事件が起った。何しろ羅馬法王と争うほどの熱血漢ウルススのことで、たちまち血気の学生の共鳴するところとなり、一にも和田、二にも和田で学校職員の手にあまり、今一歩で騒動が勃発するという報告に接した。私は困った。どうもそういう学校騒動のたまごを持ち込んだのでは、会長に対しても全く相済まぬことであった。そこで牧舎と住宅とはそのまま学校に寄付して、彼に牛を曳いて帰って来いと命じた。
すると大きな体のウルスス君が牛を曳いてノッソリと帰って来たが、特別大きなこの二つの存在には、第一入れる場所からして無い。私も全く当惑した。ことここに至れば完全な牧場を設けて、この両者を活かすよりほかなしと決意した。
そこで獣医学校の大槻雅得氏に設計を託し、三井家の牧場をも参酌して、きわめて小規模ながら牧場を自営することとなった。すなわちこれが仙川にある中村屋牧場である。
この牧場はこんなわけで出来たが、今日では最も優良なる生乳と生クリームとを供給し、中村屋にとり、なくてならぬ存在となった。窮余の一策としてやむにやまれず設けたものが今日これだ。人間万事塞翁が何とやら、うまいことを言ったものだと思う。
また私はこの牧場経営で、二年ほど苦労したが、その後欧州視察の旅で、この知識がたいへん役に立ち、あちらの農業視察に大いに便宜になった。欧州の農業経済を知るにはその基礎たる牧畜の知識を切要したからである。
もう一つの幸いは、ウルスス君が私の所に来て以来、修道院製造のバター、チーズ、タニヨール、果物漬などを中村屋が取扱って全国に配布することになった。
四囲の刺激に一段の飛躍
三越が新宿に進出し、現在の二幸のところに支店を開いたのは大正十五年十月であった。まだその頃の新宿は新開の発展地とはいえ、これといって目に立つほどの商店もなかったから、三越支店の出現が、新宿一帯の地に与えた刺激は大きかった。地元の商店で多少ともその打撃を受けないものはなかったが、中村屋(当時売上げ月二万円程度)でも、月額千円に上った商品切手が全く出なくなり、その他の売上げにおいておよそ二千円を減じ、合わせて三千円の激減を見た。これらの客はすべて三越に吸収されたものであった。
私は考えた。鳥なき里の蝙蝠《こうもり》という譬《たとえ》があるが、三越という大きな鳥が出現して中村屋がただちにこの打撃を被るのは、やはり中村屋の商売にまだ一人前として足らぬところがあるからである。これは大いに反省し環境に従って一段の飛躍を遂げるのでなかったら、せっかく独自の位置を築いて来た中村屋が、今後百貨店のおこぼれを頂戴する悲運に陥らぬとも限らぬ。これは一刻も猶予ならぬ、奮起するはこの時であると。
私はこの難関突破の決意をもって、翌昭和二年一月、幹部会を開いた。ところが幹部めいめいの感ずるところもほとんど同じであって、誰一人弱音を吐くものはない。
『我々が多年努力して今日の繁栄を築いた新宿です。相手がどれほどの大資本であろうと、飛入り者の後について行けるものですか。御主人にもどうかこの辺御決心を願いたい』と、これが期せずして一致した意見であった。私も胸中を打ちあけ、一同に対策を諮《はか》ったところ、店員側は何よりもまず閉店時間を、これまでより二時間延長し、日曜日も平日の時間通り営業することを希望した。
それまで中村屋は平日午後七時閉店、日曜大祭日は五時閉店のきまりであった。夏の夕の五時以後は盛り場の新宿のことで、優に半日分以上の売上げがある。私はそれを承知していたが、世間の人が一週に一度の日曜日を楽しんでいる時に、我が店員は平日よりもいっそう多忙に過ごすのである。せめて夜だけでもゆっくりさせてやりたいものだと考え、得意への御不便を察して恐縮しなが
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