んだものを全部パンに製造しては売れ残る恐れありと見るや、その余分だけを「ラスク」(乾パンの菓子)に製するのである。しかしこの場合、その製品たる「ラスク」をどう処分するかが問題で、これには別途の販路がなければならない。当時「ラスク」は市価一斤(百二十匁)七十銭で、相当高級品として上流家庭に需要のあったものであるが、私の「ラスク」はパンの廃物利用として造り出されたのであるから、その値段は一般民衆に得意を見出す程度のものにしたいと考えた。
 そこで「ラスク」の原価調査をしてみると、一斤の原料費が三十五銭、製造費十五銭、卸売費五銭で、合計五十五銭、そこへ小売店の販売差益十五銭を加えて七十銭となっていることが判った。私はこの七十銭の市価に対して、原料費の三十五銭と雑費の五銭を加えて、四十銭で売り出すことに決めた。職人等はそんな安値で売る品物ではないと言って強く反対したが、私は、このラスクは元来がパンの過剰処分であるから、普通の商品並みにすることはよくない。原料代を回収することが出来れば、工場費も燃料も職人の給料も、全然見る必要がないという見解であった。ただこの安値で売ることはラスクの製造販売業者に対して気の毒であったが、私の店では天候急変の日の過剰処分以外には製造しないのであったから、他店に甚だしい迷惑はかけなかったことと思う。
 さて出来上がった数百斤のラスクを店頭に出した成績はというと、非常な歓迎を受け、僅々二、三時間で全部売り切れとなった。爾来十年、大雨大雪の後には、ラスクが出来ているかと言ってわざわざ来店されるお客があるほどで、私の方でも心楽しくこれを店頭に出すことが出来るのである。パンの原料をラスクにするという、これだけなら判って見れば何でもないが、要はそれをいかに売るかの気転にある。

    物価の騰落に処する小売商の覚悟

 大正四年から大正八年までの五年間は、欧州大戦の影響を受けて物価暴騰し、またその後は急落して、昨日の成金は今日その居所をさえ失うという有様で、我々のような小売商の中にも騰落に際し方針を誤ったために、多年の信用を一朝にして失い、閉店倒産したものが少なくなかった。大正四年開戦の当初は諸物価一時下落したが、たちまちにして騰勢に変じ、漸次その勢いを増して今日は昨日より明日はまた今日よりも騰《あが》るというふうで、株式も土地も各種材料も買えば必ず儲かるのであったから、日頃着実な地方の農家までが競って思惑株に手を出し、また土地の買占めをするものがあったりして、ほとんど国をあげて投機の熱病に罹《かか》った観があった。ところが大正八年三月の停戦と同時に物価急落し、それまで隆々旭の昇るが如き勢いであった神戸の鈴木、横浜の茂木などが、千万の富を負債にかえて没落したのもこの時であった。
 しかしまた一方には少数ながら騰落に処して少しも損害を被らなかったものもあるのであって、それらの商店はどういう用意を持っていたか、大いにここは吟味を要するところである。私に言わせるならば、物価暴騰の際には何時かそれが旧態に復する日があることを予想すべきであって、その考えもなしに景気の好調にまかせて買い進み、上が上にも利を占めようとするなどはじつに愚かの極みである。物価が正常のところに復するのはいつであるか、その時期は容易に判らぬとしても、十円に仕入れたものが景気に乗って二十円三十円にも売れるなどということは決して尋常の沙汰でなく、儲かってもそれは不当利得である。すなわちその不当なる利益は別途に貯えておき、やがての反動期に備えるのが商人としての良心であり、また一般人の常識であらねばならない。
 我々の同業者の中でも、景気に乗って思惑買いをして、一時は大いに儲けたものもあった。何しろ当時は一俵二十二円であった砂糖が、三十円になり四十円になり、終には五十五円にまで騰り、この調子では七十円くらいまで行くかも知れぬと予想されたものであった。そこで五十余円の砂糖を幾百俵も買って予想の高値を当て込んだ同業者があったが、気の毒にも次に来たものは滅茶滅茶の暴落であった。
 私は最初から、思惑買いはさておき、実際に使用する砂糖でさえも買置きせず、必要量だけを購入してこの変則の場合を凌いでいたので、五十五円が一時に三十円まで下落した際も、私のところには一俵の手持もなかった。つまり不当の利を得ようとしなかった代りに損をせず、すぐに安くなった砂糖を使うことが出来たのである。むろん私は世間で投機熱がいかに流行しても、株に手を出すなどということはなかったから、好景気に際して厘毛の利益も得なかった代り、この急落によって少しも打撃を被ることもなく、したがって中村屋は安泰であった。
 しかし大戦当初よりのことを考えると、中村屋のような地道な店は、世間が成金成金でお祭り騒ぎをする中にあって、ずいぶん割の悪い人知れぬ苦心をしたものであった。材料は騰貴し、世間には金が洪水をなしているような話であっても、その半面には直接好景気のお蔭を被らぬ俸給生活者の生活苦の声があり、小売商はその間にあって、一方からは高い材料を買い、一方へはそんなに高く売れないという状態であった。それゆえ砂糖は二倍半まで上がったにかかわらず、菓子の売価は前後二回の値上げで、一本十五銭の羊羹を二十三銭に改め、約五割ほどの引上げをした程度に止まるのであったから、同業者は内実みな赤字となって困難した。それでも世間一般好景気の手前、泣言もいえぬという有様であった。
 しかしその赤字は停戦となって物価急落後の一年間に、だいたい補充することが出来た。それは前にも言ったように、中村屋は高値を見込んでの思惑買いというものをいっさいしていなかったから、すぐに安くなった材料を使えたこと、材料は下がってもいったん価格の上がった菓子はすぐ下がるというものでなく、なお相場の落着きを見るまで当分そのままに置かれていたから、これまでの赤字に引きかえ、普通以上の利益となったこと、もう一つはいかに原料高で赤字となって苦しい時も、平和回復の時を信じて原料を落さず、いつも最良の品を用いて来たことにより、お得意がいよいよ増加し、売上げが多くなって確実に繁昌の度を加えたこと等々、およそ世の投機的商才とは全然相反する誠実と辛抱の結果として、きわめて自然に持ち来たらされたものであった。同業者中にはここまで辛抱が出来ず、原料高に堪えかねて材料を落し、あるいは分量を減じて赤字から免れることに腐心するうち、次第に得意の信用を失い、ようやく平和となって利益の見られる時分には売れ高著しく減じて、とうとう破産したものも少なくない。
 私は店員諸子に言っておく。欧州大戦で私が経験したほどのことはなくても、物価が急に騰貴し、原料高で赤字に苦しむことは今後もあるであろう。その時は焦ってはいかぬ、常時における若干の利益は得意よりの預り物と考えて、力の能《あと》う限り辛抱し、預金の返済をするつもりで勉強することが必要である。そうすれば販売価格の引き上げられる時、または原料下落の場合に、出しただけのものはきっと戻されて来るものである。あまりに小心に目前の赤字を免れようとして値上げを急ぎ、また品質を落すなどのことは、商人として慎しむべきの第一である。

    朝鮮土産と不老長寿

 大正十一年、私は妻と共に朝鮮に旅行した。それまでにもちょいちょい小旅行を試みたことはあるが、両人共にこうしてやや遠くまで出かけられるようになったことは、新宿に移ってから十五年、店の成長とともに、我らと寝食を共にして来た店員の成長したことをも語るものであって、留守を預けて出るにつけてもこのことは思われ、ここにも新たに店主としての喜びがあった。
 朝鮮旅行の目的は、一般に視察と称するような堅いものではなかったが、さりとて単なる遊びの旅でもなく、まず朝鮮の家庭訪問というところであった。我々はかねて、新たに同胞となったこの半島の人々に対しては一段と親しくし、互いに心と心をよく通じ合うようにせねばならぬと考えていたので、在京学生の青年たちにも喜んで接し、折に触れては家庭に招待して食事を共にするなど少しばかりの世話ぶりをしたのが、青年たちの父兄に喜ばれ、ぜひ朝鮮を見に来てくれと彼方此方《あちこち》から招きを受けるようになり、とうとうこの訪間となったのであった。
 私はこの旅行によって初めて松の実というものを味わった。我々は京城に入っても内地人経営の旅館には入らず、朝鮮の宿に泊り、かの地の旧家であるところの家庭に彼方此方招かれて御馳走になった。朝鮮上流家庭の婦人はめったに屋外に出ることがなく、他人には顔も見せぬ慣しだが、料理には至って堪能で、どちらの家庭で御馳走になっても夫人令嬢の手料理で、じつに心地よくもてなされた。その料理の中に松の実があって、私はその味わいの上品な濃厚さに感心し、支那人がこれを不老長寿の霊薬とし、朝鮮でも比類なき最上の滋味とするいわれになるほどと肯いた。
 そこで私の朝鮮土産は松の実ときまり、古来仙薬の如くに尊ばれるからには必ず何か科学的根拠があろうと考えたので、帰京後鈴木梅太郎博士に研究を依頼し、農大鈴木研究室において右川鼎造学士担当、約一ヶ年に渉る動物試験の結果、松の実中にはヴィタミンBを多量に含み、副食物として、また嗜好品としてきわめて優良であり、特に米を主食物とする我が日本人には栄養価大にして精気を加えるものであることが証明された。
 そこで種々研究して、まずこれを瓶詰として売り出し、さらにこれを菓子に用いようとしてずいぶん苦心した。なにぶん松の実は日本菓子には調和しにくい性質なので、この研究には数年を費し、何十度という試みをした結果、とうとう松の実カステラをつくり出した。
 苦心の甲斐あってこれが大いに世に迎えられ、売行きが増加するにつけて、松の実の買付けも多くなったので産地でも相場が上がり、このことによってまた半島の同胞に喜んでもらうことが出来たのは、私にとってまことに松の実の不老長寿以上の喜びであった。

    個人商店を株式会社に改む

 大正十二年中村屋の売上高は一ヶ年二十万円に達した。これに対して税務署は、純所得をこの売上高の一割五分として三万円に査定するということであったが、そうすると税金だけで六千円近くになる。
 税務署のかかる追求には、中村屋は本郷以来相当悩まされ、どれほど折衝したか知れないが、ついにここに至って、査定通りの税金を払ったのでは立ち行かぬということになった。
 中村屋はよく売れるには相違ないが、至って地味な経営で安全第一主義であるから、利益率は売上げの増加に反比例してかえって減じているほどであった。むろん私が言う安全第一は消極的の意味ではないが、優良な品を売ることが店の眼目であれば、製造に関する諸設備も絶えず改善されねばならず、店員の待遇も漸次引き上げて、日々の繁忙の間に犠牲者を出さぬよう出来得る限り生活の安全を計るべきであるし、店が発展すればそれにも増して経営費率が上がり、利益はかえって少なくなる有様であった。したがって純益は三万円どころか、その税金の六千円だけもむずかしい実状であった。
 そしてこれはひとり中村屋に限ったことではなく、世間の健実な商店の経験するところであるが、税務官にはこの理由が理解しにくいと見え、店が発展して来ればどこでも必ずこの問題に悩まされるのであった。
 中村屋はついに窮余の末、十二年四月急に株式会社組織に改めた。その結果純所得が約五分の一の六千三百円に決定され、税金は、私の個人所得をも加えて千五百円となった。すなわち中村屋は個人商店を株式会社に改めて、初めて税金が負担に堪え得る程度のところに落着いたのであった。当時税務署の課税方針には、個人商店に対するのと、株式会社や百貨店に対するのと、じつにこれだけの相違があった。しかしこの不合理も近年は大いに改まり、会社組織と個人店の間に著しき相違を見ざるに至った。
 さて株式会社中村屋は資本金十五万円とし、全株の半分を妻良の名義にし、残りの半分をば私と婿のボース、伜や娘
前へ 次へ
全24ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 黒光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング