身につけていたということです。そういう親身な情とともに、私は今でも深くおはつさんに感謝しています。

    癲癇《てんかん》病みの喜どん

 喜《きい》どんの喜市はとても芝居好きで相撲狂でありました。彼は本郷から赤坂麹町まで卸《おろし》の配達に出ましたが、帰りには必ず神田の三崎町を通り、三崎座をのぞくことにきめていました。三崎座といっても今の人には解りませんが、歌扇という女役者が座頭《ざがしら》で男の立役を演じ、なかなか人気があっていわゆる民衆的な劇場として、三崎座のファンは相当多かったものです。喜どんも箱車を傍の空地に置き放しにして立見をやって帰ったものです。
 芝居好きの喜どんはまた小説類を濫読しました。むろん公然と許されているのではなく、隠れて読むのですが、芝居や小説から彼は決してよい刺激を受けなかったらしい。もちろん隠れてすることで自分に選択する力はないし、どんなものをどう読んでいたか喜どんの様子がだんだん解せなくなり、その間に私たちが気がつかなかったことも済まないことですが、ある日突然喜どんが卒倒し、それがただごとではないのに驚きました。卒倒して痙攣を起し泡を吹き、初めてこんな発作を見た私たちは急いで町医者を迎え、喜どんがこのまま絶命するのではないかとじつに心配しました。診断の結果医者は、『癲癇《てんかん》[#「癲癇」は底本では「癩癇」]です』といい、なかなか業病で時々ところきらわず発作するのだがそのまま死ぬものではない。ただ舌を噛んだり頭をひどく打ったりするといけないから、本人も周囲の者も常に注意して、人込みの中に行かぬよう、精神を刺激せぬよう、もし再発したならば周章《あわ》てないで、人のいない室に静かにねかせて鎮静するのを待つがいいと言われました。その後三、四回発作がありましたが、成年に至り、からだも心も健全に近づくにつれて次第に遠のきました。
 喜どんの発作は、芝居に夢中になったり小説に読み耽った後に起るのがきまりでしたが、これはあなた方もよく考えるべきことだと思います。

    路加少年

 路加《るか》という名はあなた方の耳にも珍しく聞えるでしょう。この少年は厳格なクリスチャンの家庭から託されたもので、新約聖書の中のルカというキリストの弟子の名を取ってこうつけたのだそうです。
 路加はミルク・ホールに食パン配達を受け持っていました。ミルク・ホールというのは現在の喫茶店をもっと簡単に原始的にしたもので、ミルクと食パン、それに低級な洋菓子風のものをおいて牛乳を提供し、おもに学生の便利を計ったものです。
 路加はそのミルク・ホールの女中と心安くなり関係して悪質の病毒を受け、一夜のうちに風眼にかかり、酷い痛みに苦しみました。主人の注意で取りあえず医者の診察を受けたところ、風眼と判り、すぐに手当をして間髪を入れずという危いところで失明を免れました。私は可憐な少年たちがこうした誘惑に陥り、健やかに清らかな生命を蝕ばまれるのを見せつけられてじつに悲しく、またそれらの少年をよく指導してやるべき主婦の身でいながらこんなに行きとどかないで、ほんとうに申し訳なく思いました。性の問題にはことに厳粛な思想を抱いている私は、それがためかえって実際に疎いところがあっていわゆる性教育に関して全然無知識でしたが、お互いにこの状態にいることのいかに危険であるかを痛感させられました。幸い路加少年は早く手当がとどいたので危いところで助かりました。もし当人が秘密にして姑息な方法で治そうとしていたら、可哀想に一生を暗闇《やみ》に葬らなくてはならないのでした。恐しいことです。

    浅野さんの懺悔

 浅野民次郎のことは「黙移」の中に詳しく書きましたから、ここでは最も尊い懺悔の一節だけを記すことにします。
 浅野さんは救世軍の兵士として、中村屋から毎晩行軍(街頭説教)に出かけました。当時救世軍はまだ甚だしい経済難のうちにあって、給与があまり僅少なためにたいていおかずを食べることが出来ず、塩など舐めて済ます有様でしたから、浅野さんは店で食事をするだけでも倖せだなどと言っていました。中村屋とてもその頃は充分な手当を支給出来なかったから、ずいぶん不自由な思いをさせたことでしょう。
 ある晩私たちは店を閉じてから例の三畳の間で帳面調べをしていましたが、そこへ浅野さんが入って来て、何か用事ありげにもじもじしています。そのうちに頭を膝まで下げ、低くてききとれないような声でこういいました。『国へ手紙を出そうとすると切手を買うお金がなかったので、悪いとは思いながら店の売上げから十銭無断で使いました。まことに申し訳ありません、お許し下さい』そして畳に頭をこすりつけて詫び入るのでした。
 これを聞いた私たちは叱るどころか、正直なその告白に非常に感激してしまって、『浅野さんよく言ってくれました、こういうことを行《や》らせた私たちこそ済まないのです』と言って後は言葉が出ず、三人は心の清々しさと嬉しさで胸がいっぱいになり、ともに涙に咽びました。浅野さんのこの時の清らかな懺悔は永久に天国の記録に残るでしょう。
 その後こういう美しいものにめぐり合わないのは何となく淋しく感じます。店員の数が増加するに従い、昔のような家族的なあたたかみの内に団欒する機会が失われ、予期しなかった冷たい規則を用いて警戒しなければならないようになったことは、ほんとうに困ったことであります。

    おまきさん

 大正四、五年頃中村屋に務めていたおまきさんは、なかなかのしっかり者でした。
 印度革命首領ラス・ビハリ・ボース氏に退去命令が下って、一時中村屋の一室に憂愁の幾月かを送らねばならなかったことは、主人や私の書いたものであなた方も知っているでしょう。当時おまきさんもこの事件につき、重大な任務を引き受けることを誓いました。普通の女ならば怖がって逃げ出すところを、おまきさんは大胆に沈着に自分の役割を果たしました。風俗習慣が違い、言葉の通じない外国人のボース氏を世話するのは容易なことではなかったし、秘密を守るためには肉親の者が死んだという知らせを受け取りながら、涙を隠してとうとう葬式にも行かなかったのです。私もまた行かせることが出来なかった。義のためには人はじつに辛いことがあるものだと、私もひそかに涙をしぼったことでした。でも店員一同はもちろん、女中までがあの潔い公憤をもって一身を顧みずボース氏の守護に努めたればこそ、ボース氏も生命を全うし、日本の面目も立ち、また私たちとしては頭山翁の信頼にいささか酬ゆることが出来たのです。あの時皆が私たちを助けてくれたことはじつにじつに今も肝に命じて忘れません。
 この事件も一段落ついて間もなく、おまきさんは暇をとって家庭の人となり、横浜に住んでいましたが、大正十二年大震災の時危く焼死を免れ、再びもとの仕事に着手して復活の途上にある時訪ねて来て、無事な顔を見せてくれました。が、その後どうしたか消息が絶えてしまい、今もって安否が知れない。印度問題でボース氏の活躍を見るこの頃、しきりに彼女のことが思い出されてなりません。願わくはどこにありても健全なれと祈ります。

    店葬のはじめ

 留吉さんは鋳造の大家山本安曇氏の弟で、中年で入店し、販売部で働いていた。中年者はどこでも歓迎されるものでなく、当人としても中途からでは何をしても成功|覚束《おぼつか》ないと相場がきまっているが、留吉さんも初めのうちは小姑の多い中に来た嫁のように、何かにつけ気兼ねはあり、仕事に経験がなくてずいぶん骨が折れたようでした。しかし性質が非常に善良で真面目で、倦まず撓《たゆ》まず働くうちにだんだん仕事に馴れ、いよいよ熱を加えて来ると普通の人の三倍くらいの働きをして、とうとう古参の者を凌駕するに至りましたが、これはほんとうに異数のことでありました。
 惜しいかなある夏ふとしたことから病みつき、僅か数日にして暑苦しい倉庫の片隅で、朋輩の看護のうちに淋しく死んで行きました。その頃はまだ寄宿舎もなく、病人のために何の設備も出来てなかったので、どんなに行きとどかぬことであったかと、今思い出しても胸が痛くなる。それでも本人は不平を言わず、かえって朋輩のやさしい心に感謝して逝きました。
 私たちは故人の功績に報ゆるために、店葬として厚く弔いました。中村屋の店葬はこの人をもって嚆矢《こうし》とします。

    精一郎のこと

 精一郎は主人の甥で、福島高等商業を卒えて中村屋に実地修業に来ていました。主人の肉親というものはとかく僻《ひが》みをもって視られ易い傾向があるから、私は精一郎を褒めることは遠慮します。本人も常にこの事を心にかけて伯父である主人に告げ口でもしないかと他から思われるのを嫌がり、決して自分一人では私たちを訪ねることをしないばかりでなく、店で顔を合わしてもただ目礼して逃げるように行き過ぎたものです。
 しかし私はあなた方に精一郎のことばかりはぜひ言い遺しておかねばならない。現在中村屋の帳簿は株式に組織を改めて以来、整然として秩序が立ち整理されていますが、昭和三年春、主人が欧州に渡行する頃は帳簿といってもまだ完全なものではなかった。
 したがって主人の留守に私がその帳簿を見ても、内容をはっきり知ることが出来なかったのです。そこで精一郎を呼んでいろいろ質問してみると、倉庫と工場、販売と仕入れとの間に連絡もなければ明確な計算もなく、至って漠然たるものでした。それから精一郎と相談をして、主人の留守中に完全に整理し、帰朝の主人に一目瞭然の帳簿を呈して留守中の報告をしたい旨を希望して、尽力を頼みました。
 精一郎は涙ぐましきまでに精根を傾けて本格的に帳簿の整理を行いましたが、まだ後に倉庫の確立、仕入部と工場との浄化の実現という最も至難な仕事を遺して、洋々たる前途を望みながら惜しくも彼は逝ってしまいました。
 その前後に果たして中村屋内部の危機が迫って来ました。その結果として製パン工場に一大廓清が行われ、職長並びに部下数名の退店等のことがあって、各部戦々として不安の色がありましたが、歪めるものを直くするには周囲に多少の動揺は免れないものです。

    年始まわり

 本郷森川町といえば昔から学校街で、商店はほとんど教授方と学生目当てのものばかりでした。だから顧客の範囲も至って狭く、森川町一円、東片町、西片町、曙町、弥生町、少し離れて駕籠町、神明町辺りが止りでしたから、新年には顧客先を私自身一軒一軒年始まわりをしたものです。先代の中村さんは配達の小僧に名入りの手拭いを持たせてやったと聞きましたが、私どもはどうしても主婦自身伺うべきだと考えたのです。お勝手口から『中村屋でございます』と御挨拶すると、奥からわざわざ奥様がお出ましになって『まあ中村屋さん、こんな所からでなく玄関の方におまわり下さい』といとも御丁重な応待で、かえってこちらが恐縮しました。目白の女子大学の寮のお勝手口にもたびたび伺いました。これがまたお客様と店との親しみを深める因にもなり、双方で商売を離れた一種の情味を生じました。御用伺いに出る小僧に『この頃おかみさんの姿が見えないが、変りはないか』とお尋ねに預かり、私は産褥《さんじょく》でこれを聞いて心から有難く思い、またそちらにおめでたがあれば嬉しく、御不幸ときいては心が痛みました。
 新宿に移ってからはおとくいも多く、また広範囲にわたって、それに交通はまだ今のようでなく、ことに郊外は泥濘膝を没する有様でしたから、霜どけ路に進退きわまり立往生することもしばしばでしたが、年に一度の年始まわりだけはどうしても私がすることにしていました。それが昭和三年まで続きました。そのうち私はだんだん健康を害し、やむを得ず次女千香子に代理させました。千香子の結婚後は長男安雄が後を受けて年々続けて来たのでしたが、だんだんおとくいが増加し、また店に来て頂くお客様の方が幾倍する状態となってついに本郷以来の慣例を、不本意ながら廃せねばならない次第となりました。

    鳥居博士御一家

 考古学の泰斗
前へ 次へ
全24ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 黒光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング