《たいと》鳥居龍蔵博士の御家庭は、創業当時の中村屋にとり大切なおとくいでした。一つにはその思い出をあらたにし、またあなた方に学徳ともに高き先生のお教えを頂くために、先だって淀橋公会堂で博士の御講演をお願いしたのであります。当日私が先生を御紹介致すはずであったのを、病気のため出席出来ず、おいで頂いた先生に対してまことに申し訳ないことでありました。やむを得ず私は大意を認めて三松氏に託し、代読してもらいましたが、いまそれをここに記しておきます。
『鳥居博士は皆もすでに存じ上げている通り、日本における考古学の権威者として最も有名なお方であります。先生は昨年の春、南米ブラジルの招聘《しょうへい》により、御令息と一緒に彼の地へお出でになり、つい先だって研究を果たしてめでたく御帰朝になったのであります。さような専門的な学問と私ども小売商人とおよそ縁遠く、したがって先生に講演をお願いするなどということは御遠慮すべきでありましたかもしれませんが、あなた方のためにあえて先生を煩わすに至ったのはいささか因縁があるので、簡単にそれを申します。中村屋が初めて本郷に店を持って数年の間は、いわゆる創業時代でありまして、見るかげもない、まことにみすぼらしい三文店でありまして、むろん製品だってきわめて貧弱なものでありました。その頃鳥居先生は中村屋の近くにお住いで、私どもにはこういう微々たる時代に、今日ここに御出席下さいました奥様に始終御ひいきにして頂きまして、どんなに有難いことでありましたかしれません。そのうちに先生と奥様は前後して考古学研究のために蒙古の奥地においでになりました。また私どもは新宿に支店を設けて、毎朝本郷から新宿に通い、その後はさらに慌しい日を送るようになりましたので、一時先生にも御遠々しくなり、時々新聞や雑誌を通して、ますます研究の歩を進めておいでになる御様子を知り、主人とお噂申し上げて居りましたが、ついお伺いする機会もなくて居りました。ところが昨年南米ブラジルにおいでになることを新聞で知りまして、私はちょうど病床におりましたのですが、このたびこそはと起き上がり、主人を促して一緒に先生をお訪ねした次第でありました。本郷以来、春風秋雨幾十年は夢の間に過ぎ、鳥居先生は考古学の泰斗として外国にまでお名がひびき、ますます蘊蓄《うんちく》を深められつつあり、奥様もまた先生と同じ学問に志をたてられて、内助の功まことにお見事に、御令息御令嬢、一家をあげて同じ研究に精進せられているのはまことに驚異と申し上げねばなりません。総じて学者の仕事は地味で目に立ちませんから、一般の人には理解されにくいようでありますが、それだけ奥深く尊く、我々の文化の母胎は常にこういう専門的篤学者によってつくり出されつつあるのであります。あなた方はかような尊い学者のお仕事に対し、常に尊敬と感謝を捧げ、また鳥居先生のように一家をあげての御努力には大いに学ぶところがなくてはなりません。これを御紹介の辞といたします』
当日先生には私どもの切なる願いを容れられ奥様と御同道でおいで下され、あなた方にじつによい御講演をして下さいました。まことに御縁というものは有難いもので、あなた方もよくこの縁を思うべきであります。いまや満州蒙古の問題の重要視せられる時、三十幾年前すでに鳥居博士御夫婦が多くの危険を冒して前人未踏の奥深く入り、貴重な研究を遂げられていたということは、じつに意義深く、皆さんもそのつもりで先生のお話をいっそう感銘もって伺ったことでありましょう。
中村屋に女子を使わぬわけ
本郷から新宿に支店を設けた頃のことでした。女学校出身でパン屋をしているということが二、三の新聞で紹介され、その記事に刺激され、東京はもとより地方の婦人たちから種々問合わせがあり、私はいちいち返事を書く暇もないので困っていました。そのうち山陰地方の○○○という小さな町の娘さんから手紙で、ぜひ店において商売を見習わしてくれと懇願して来ました。私どもも慎重に考えて、容易く引き受ける気はなかったのですが、あまりたび重なり余程熱心のようでしたし、その婦人がこちらのおとくいの親戚に当るということが判って見ると、どうもお断りしかねてついに承諾してしまいました。
早速上京して私をたずねて来た本人を見ると少し意外でした。どうも商売見習いは口実で、他に何か曰くがあるらしく、果たして入店早々私の予感の間違いないことを示す行動がありました。それは医科大学生と称する従兄が同じく上京していて、その交渉が頻繁なところから店員たちの注目を惹き、ついに店員との間にも忌わしい問題を惹起したのです。まことに店としては由々しき大事で、やむを得ず退店してもらいましたが、母なる人が心配して引取りのため上京されたのに会って、初めて事情が判りました。何でもその娘は町で小町娘と評判されたものだそうで、もっとも私にはどこが美しいのか解りませんでしたが、そんなわけで身持がおさまらず、壻《むこ》を置き去りにして情夫の後を追いかけて来たのだということでした。そういうことも知らず上京の手蔓になった私は、お母様に対しても気の毒で、深く自分の軽率を恥じました。
このことがあってから私は考えて、中村屋では女店員を使わぬことに決し、いかに別懇な間柄で頼まれても、こればかりは断って来ました。
しかし三十年前と現在では時代も進み、婦人の職業も広くなり、それだけ自覚も出来て来たものとすれば、この鉄則も将来は破られる時が来るかも知れません。現在金銭登録器の前にいるもの、掃除の一部を担当しているものなど婦人もないではありませんが、これはみな店員の家族や私の親戚の者で、外から来た婦人でないことはあなた方もよく知っていると思います。
店員の情操教育
私は小学校時代から絵を見ることが好きで、したがって絵をかく人を友にし、自分は不器用で何も書けないけれど、いつとなく一通りの観賞眼は養われたように思います。本郷で営業していた頃は展覧会も今のようでなく、自分としてもずいぶん忙しく無理であったにかかわらず、上野の文展のはじまる秋には必ず時間の都合をして見に行き、こればかりは年々欠かしたことがなかったのです。
それ以前から上野の美術学校には、先代中村屋がパンを配達していた関係上、私の代になってもそのまま配達をつづけていましたが、そのパンは別に学生さんが食べるのではなく、木炭画の練習に入用なのでした。その美術学生たちが自分で店頭に買物に来ることもあって、こちらも絵の話となると夢中になる方なので、出入りのはげしい店先で不似合な立ち話などしたものでしたが、そのうちだんだん昵懇《じっこん》になって、卒業製作の絵の具料や写生旅行の費用を一時立て替えてくれというわけで、小品などを預かり、ついそのままになったものもあります。
そういうことがたび重なり、いつの間にやらいくつかの作品が手元に蒐《あつ》まり、それがまた店や居間に掲げられ、唯一の装飾となって、落着きのない騒がしい生活の中で、さながら沙漠のオアシスのような慰藉を与えてくれていました。
現在持っている絵や彫刻はほとんど新宿に来てから、それぞれ自然な機縁によって手に入ったもので、本郷時代の作品に比して内容技巧二つながらすぐれたものであることは、画面のサインによっても判ることでしょう。ことに故荻原碌山の彫刻絵画、故柳敬助氏(この方は販売部主任山田健三氏の従兄でした)、故中村|彝《つね》氏等いずれももとは中村屋の屋敷内に起臥し、食卓を共にした人々であり、じつに堂々たる美術家揃いでありました。詳しいことは「黙移」の中で述べています。
いま喫茶部で使用しているブロンズの灰皿は、私の希望で碌山氏が粘土で作りかけ、出来上がらぬうちに氏は世を去りましたので、友人たちが故人の触《タッチ》を毀わさず残そうと、未成品のままブロンズにして永久に作者を偲ぶことにしたのです。鋳造を同郷の人山本安曇氏に依頼する時、碌山の遺族に二個、相馬家に二個、ほかに中村屋の分として一号より二十五号までナンバーを裏面に打ちこみ、非売品として喫茶部に備えたのでしたが、いつのまにか一個減り二個減りして、現在は十個ほど不足になっています。誰の手に持ち去られたものか、花ぬすびと同様ゆるしてのみいられぬところもあり、また失われるごとに係の者が責任を問われるので、最近は宴会の席以外には出さないことにしてしまいました。まことに不本意ではあるがやむを得ない次第であります。
その他国宝とも称すべき頭山翁が書いて下された幅、かつて支那の大総統をした曹※[#「金+昆」、第4水準2−91−7]の一筆の虎、支那僧密林師、犬養翁、また私の恩師渡辺海旭上人の偈文、現満州国皇帝の溥儀執政時代の御手蹟、小川芋銭氏の狐の嫁入り、良寛の扇面掛軸、明治大正昭和を通じてそれぞれ有名無名の人の優秀な油絵、チベットの喇嘛《ラマ》僧リンチェンラマより頂いた西蔵の貴重な経文等々、こう書きならべて見るとあなたがたにはことごとく見覚えのある懐しいものばかり、それが折々かけかえられることもみなよく知っているでしょう。
そればかりでなく、中村屋の家具什器等々、豪華を誇るようなものは一つもないが、どの品だって価が安いから体裁がいいからといって手当り次第に買い集めたものではないのです。椅子テーブルの如き家具類にしても相当に心を払い、クロース、食器、掛紙、紙袋等、何かしら私たちの気持を含ませ、自ずとそこには一つの好尚《このみ》が現れている筈です。あるいは我々の道楽と簡単に見てしまう人もあるでしょうけれど、それにしてはあまりに犠牲が大きすぎるのです。
人は神仏の前あるいは崇高な人格者に相対する時、自ずとそこに額づき、挙動をつつしみ、言葉も自ずから改まります。その通り私どもの商売に好意を寄せて下さるお客様に対しては、尊敬の念が湧き、感謝の心を起し、自ずから丁重に接するようになる筈です。いうまでもなくよい菓子を拵えて満足してもらいたいと思い、包み紙一つにも心して、よい感じを贈りたいと自ずといろいろ工夫するものです。ましてしばらくの憩いの場所となるお茶のテーブルに、皿の形さえあればよい、腰掛けの用にさえ足ればよいとは考えられない。またこの思いはあなた方店の人たちに対しても同様です。こういう私どもの心持が一つの表現となって製品と化し、食器となり、家具その他いっさいの内容外観をつくるのであります。この生きることだに容易でない世に自分の才分にもない油絵、彫刻、書画をもって店を荘厳することは過ぎたるわざかも知れないけれど、お客様も私どももあなた方もけわしい人生の行路を辿る間に、お互いの触れ合う僅かの機会をも空しくせず、芸術を通してしみじみ生けるいのちのよろこびを感じ、天のはかり知れざる恩恵を謝し、共にその魂の浄化せられんことを願うものであって、神も仏も必ずやゆるし給うことと信じます。
しかしこれとて度を越す時は、道楽と虚栄に堕する危険があります。かえりみて警戒すべきことです。
また年に一、二回の観劇会と相撲見物、その時あなた方は古参新参の別なく、みなが一等の席に坐り、上等の弁当を提供される。ある人これを見て、『店員に一等席は贅沢すぎる、二等でたくさんだ』と苦々しげに云いました。この人は私たちの精神を全然理解していないのでした。敬意をもって対するのにお客様であると店員であるとの差はない筈です。おとくいを大切にし、その人格を重んずるものが、家族の一員である店員を軽視し無視していいものであろうか。あなた方が勝手に芝居見物する時は、二等であろうが三等四等いずれにしようと自由だけれど、いやしくも主人が店員を招待するに店員はどこでもいいなどとはもってのほか、招待には招待の礼儀があります。ことに店員は年中人様にサーヴィスして上げて、自分たちがそれを受ける場合はないのです。せめて芝居見物の時だけでも、のびのびとして、楽しみを人と共に享《う》けねばならない。
それからやはり年に二、三回、第一流の料理店で食事を共にします。ある時は西洋料理、
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