る勇猛心よりとはいえ、しらずしらずこの弊に陥り、世間から疎外され、いよいよ塾の存立を困難にさせられたのはじつに悲しむべく、いたましい次第であった。塾の卒業生前後およそ四百人、その大多数に対して、自分はじつに気の毒なことをしたと思う。自分は早く故郷を去り、基督教のこれらの慣習に対してさほど執着するには至らなかったが、井口君が病んで倒れるまでその信ずる所を変えなかった。今や報わるるところ少なく、戦い疲れて病いに臥すこの老友に対し、私は特に責任の大なるを感ずるのである。
 人のために善しと信じてしたことが、後になって意外の結果を来たす例は、私と井口君のことぱかりでなく、じつに世間に多いのである。いま私は中村屋に多数の若き人々を預り、これを思い出して責任を感ずることいっそう切である。中村屋が諸君の商業道場たることに万が一にも誤りあらば、諸君に対し、また父兄に対し、私は何と詫びることが出来るか。自分のかつての索莫たる寄宿舎生活をかえりみて、少年諸君の寮の生活を家庭的にあたたかに、また清浄にと願うはもとより、因縁尽きず、ここにまたささやかながら学舎を開いて、研成学院と名づけるにつけ、古を回顧して自ら警しむることかくの通りである。
[#改丁]

  主婦の言葉(相馬黒光)

    主婦の言葉

 今年もまた春が来て、二十三人の少年がこの中村屋に入店しました。私から見ればみな孫のような愛らしい少年たち、あなた方は父母の膝下を離れて雄々しくもよくここに来ました。各々割り当てられた部屋に荷物を下ろすともうその日から、中村屋店員としての基礎的訓練を受け、寄宿舎では監督の先生の指導によって、あなたがた自身の、そうして大勢と共同のよい生活をそこにつくるのです。あなた方はいまどんなに忙しく、体も心も緊張し、またどんなに希望に燃えていることでしょう。
 私は毎年新入店の人たちのために、雨天で店が少し閑散な時を選び、数回にわたって中村屋の歴史というような形式をもって、創業当時から現在までの経路を一通り話すことに決めていたのですが、私の健康が宜しくなかったために、昭和十二年度の新店員にはつい一回も話して上げることが出来ないで今日に至り、まことに申し訳ないことと思っています。この後にもまたこんなことがあるといけないと思い、主人のこの本が出来るにつけ、主婦としてあなた方に話して上げることを、ここに書き添えることに致しました。
 いったい店の歴史などと改っていうと、たいそう大袈裟に聞えます。けれども国に歴史あり家に父母祖父母の思い出があるように、どんなに微々たる一商店にもそれ相当の、後々へ語り継ぐべき苦心の物語があるものです。
 あなた方は学校で歴史を学び、一国の興亡、一族の栄枯盛衰、戦いの勝敗に、みなみなきっと多くの興味を感じたでしょう。その同じ興味をあなた方はやがて商業の世界、商店の栄枯の中に見出すようになるでしょう。平家にあらざれば人にあらずと全盛を誇った平家はどうしてあのような悲惨な最後を遂げましたか、それと同じ疑問がじきに商売の方にも見えて来ます。ある店は千客万来の大繁昌で、全店員一生懸命の働きをしても間に合わぬというのに、ある店では堂々たる店舗を構えながら門前|雀羅《じゃくら》を張るが如しという不景気、また一族相率いていわゆる上り身代となって富み栄えると見れば、次には眷属《けんぞく》ことごとく没落の一途を辿り四方に離散する。いったいこれはどういうわけであろうか。どうすれば栄え、どうすれば衰えるのであろうか。その興廃の原因と結果とがはっきりと判ることによって、初めて自分の心構えと経営方針が確立されるのです。目の前に現れた結果は誰でも見ますが、大切なのは結果とともにその過程を見ることです。すなわち歴史を尊重する所以《ゆえん》です。歴史に暗く、方針の定まらない人は羅針盤を失った船のようなもので、前進どころかたちまち怒濤に押し流されて、ついに船体は転覆するほかありません。
 さて歴史のお講釈は止めにして早速お話に移りましょう。一通り順序を立てて主人の話のあった後ですから、私は断片的にいろいろのエピソードを拾って、中村屋の今昔を偲ぶことにしましょう。

    四畳半と三畳

 主人がこれまで機会のあるごとに話している中村屋創業時代の店員|長束実《ながつかみのる》は、忠実で研究心が深く、その他なかなかよいところのある少年でした。その頃小店員を呼ぶのに名前に「どん」をつけたものです。どんは殿を略したもので、この呼びようには何となく家族的な親しみと、階級を超越した平等観念も含まれていて、それまでにそういう経験を持ったことのない私は、何どんと呼ぶ時にわかに自由な明るい感じと、一種のあたたかさ懐しさを覚えたものです。それゆえ今も私が思い出すのは実《みのる》ではなく、みいどんなのです。
 さてこの実《みのる》のみいどんは、どうしてか生れつきたいへんな煙草好きで、自分でもこれには全く困っていました。彼はクリスチャンの家庭に生れ、教会はもちろん、中村屋としても成年未満のうちは法度の煙草を、こればかりはどうもならずあの善良なみいどんが、人目を偸《ぬす》んでこっそりと喫っていたのは気の毒でした。
 人にはなくて七癖、みいどんにはもう一つ朝寝坊の癖がありました。その頃店員の室というのはやっと四畳半一間で、その中に六、七人が寝るのでしたから、夏の夜などとても暑苦しくて床に入れません。一人残らず夜露がしっとりするまで往来に床几を出して腰をかけているか、どこを当てともなくぶらついて戸外で涼を入れる。その留守の間にみいどんは一人さきに戻って来て、疲れた四肢を思う存分伸ばして、ぐっすり寝こんでしまうのです。そのうち一人帰り二人帰りしていつか寝床がなくなると、最後に帰ったものはみいどんをそっと抱え出してブリキ屋根の上に移して寝かせ、そのあとに割り込んで寝ました。翌朝みいどんは朝風に顔を吹かれて眼がさめるか人に呼び起されて、初めて自分の寝ているところに気がつき、寝た間のことを知るというふうで、当人の寝坊にも呆れましたが、私はそれより大勢を四畳半に寝かせる辛さが身にしみました。
 さて私たちはどうしていたかというと、昼なお暗い階下の三畳、そのまた一枚の畳は破れ箪笥と、先代から譲られた長火鉢が据っており、その前をすれすれに勝手兼工場と店との通路なので、正味のところ二畳だけが主人と安雄(当時二歳)と主婦の居間であり、寝室でもあれば食堂客間ともなってこの上なしの単純生活、いながらすべて弁じられて調法でもありましたが、その窮屈さはあなたがたにもよく想像してもらえるでしょう。
 けれどもその狭いことを誰も格別不平を申しませんでした。昔火事は江戸の花といって、半鐘がじゃんと鳴るとすぐ飛び出して火事場を見に行く、その勇ましさ景気のよさは今の東京人にはもう想像も出来ますまい。ある夜半鐘が寝しずまった町の静寂を破って鳴り出しました。遠方は一つばん、隣りの区は二つばん、区内は三つばん、近火ならば摺りばんといって、けたたましくじゃんじゃんじゃん続けざまに鳴るのでした。その夜は三つばんでしたから区内ではありましたが、昼間疲れていることではあり、一ぺん頭はもたげて見たが、『何だ三つばんか』でまた寝てしまうものが多かったのです。中に一人至って気の早い愛四郎というパンの仲職人が『ソラ火事だ』と真っ先に飛び出しました。
 間もなく鎮火して、愛四郎その他の者も戻ってもとの床に入りましたが、翌朝になって意外なことを発見しました。というのは、これも主人がよく話をする浅野民次郎の枕と敷蒲団が血でよごれていたのです。被害者の浅野さんは言いました。『昨晩火事があったことは知っているし、顔のところがひどく痛いと思ったがそのまま眠ってしまった。いったいどうしたのだろう』
 もう包み切れない加害者の愛四郎は白状しました。『それは俺かも知れない。火事場に飛び出す時、暗闇の中でぐにゃりと生温いものを踏みつけたと思ったが、どうも浅野さんの顔を踏んだらしい。お気の毒をしました』と、浅野すかさず『鼻はだ迷惑いたしてござりす』ござりますを仙台の田舎言葉で浅野さんはござりすと言いました。しばらくはこの真面目な人の洒落で一同笑いが止らなかったが、これも笑いごとではありませんでした。

    主婦の指導者おはつさん

 おはつさんは先代中村屋から店とともに受げ継いだ女中で、主婦の私より四つぐらい年上でしたから、その時分もう三十になっていました。生国は越後で眼に一丁字もない無学文盲でしたけれども、性来の利発もの、お世辞はないが実直でなかなかたのもしい女でした。私は女中を呼び捨てにしたことはなかったのです。必ず誰さんと呼び、今でも子供たちにもそうさせています。
 私はこのおはつさんを師匠として、店に来て下さるお客様への接しようから水引の掛け方、パンの扱い方など、何から何まで教わりました。お客様の顔を見るとすぐ『いらっしゃい』と、元気よく一種のアクセントをつけて迎えるのですが、新米の者にはこれがなかなか出て来ないもので、私が困っていると陰からおはつさんが『いらっしゃあい』と早速助けてくれたものです。
 おはつさんは馴れない主人を侮らずに大切にしてくれるとともに、職人や小僧(その時分は小僧といいました)たちにもちょうど弟か子供にするような態度で、それは親切に世話をしました。よくないと思うことは黙っていないで叱りました。朝二階を片付ける時、小僧が寝ている間に粗忽して蒲団を濡らしていることがあり、おはつさんはそれを見ると私に知れないよう、また朋輩に見られて顔をあかめないで済むよう、自分でそっと始末をし、目立たぬように干してやっていました。また忙しい中で手まめに綻びを縫ってやり、空模様があやしければ雨傘を忘れるなと気をつけてやる。万事この調子で、いろいろ心配りが多くて行きとどかぬ勝ちの私を扶《たす》けて、それはよくしてくれたものでした。
 このおはつさんに一つ不思議なことがありました。それは自分だけいつもおじやかお粥を食べていることで、私は気にかかり、ある時何故かとおはつさんに訊ねてみました。すると傍から職人が『ナーニおかみさん、御心配には及びませんよ。おはつさんは釜や飯櫃にくっついた御飯粒や種子飯《たねめし》(パンの発酵素をつくる)の残りを集めて煮てたべているのですよ』と代って返答したので初めて謎が解け、年若とはいえあまりに認識の足らなかった自分を恥しく思うとともに、おはつさんの心がけにはほとほと感心いたしました。
 仙台の生家にいる頃、お勝手の手伝いをさせられる時に私はたびたび母からお竹如来のはなしを聞かされ、物を粗末にしてはならないこと、水使いのあらい者は人使いもあらいものだから、井戸水でも一滴だって無駄にこぼしてはならないと言われたことを思い起し、我らのおはつさんもおはつ如来として祀《まつ》ってよい人だと思いました。
 お竹如来のことはその後も忘れませんでしたが、芝増上寺の末寺飯倉赤羽橋の心光院に今なお祀《まつ》られていることを最近に知り、それがまた故渡辺海旭先生と深い因縁のあることも分って、いまさらのように仏縁の尊さをしみじみと思うのであります。昔私が母から聞かされたように、あなた方もこの話をよく聞いておいて下さい。お竹如来の由来にはこう書いてあります。
     お竹大日如来流し板
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慶長年間、江戸伝馬町佐久間某の婢に竹といふ慈悲仏性の女あり。台所の流しもとに布を張り、流るる飯粒を防ぎて己が食となし、己の食を乞食に与ふ。遂に生身の大日如来と化生し、流し板より光明を発したりと。霊像並びに流し板は今東京市麻布飯倉町赤羽心光院にまつる。
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末世まで光る後光のさした下女  (江戸時代川柳)
雀子やお竹如来の流しもと    一茶
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 今でも何ともいえぬ温さをもって思い出されるのは、おはつさんが、私の使い古したものを喜んで受けてくれて、幾年でも大切に保存し、その季節になるとちゃんと取り出して
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