卒業生は、百八十四名、漸次増加して学校の勢力もまた上がって来ていた。総長は大隈さんで、高田早苗、坪内雄蔵、天野為之、三宅恒徳の四先生が中堅となり、外部から十数名の講師の応援があった。
 名高い坪内先生のシェークスピアの講演の人気は素晴しいもので、満堂立錐の地もなく、自分などは講義を聴くというよりは、シェークスピアの芝居を見せられているように思い、ただただ面白かった。高田先生の英国憲法、天野先生の経済学も呼び物であったが、三宅先生の法律はむずかしくて解りにくい。そこで生徒一同協議して三宅先生の講義を止めてもらいたいと、高田学長へ申し出たことがあった。
 当時私立学校では、いくぶん生徒をお客扱いする傾向があったので、生徒の申し出に対し、先生方には明らかに狼狽の色があり、我々の希望は達せられるものと信じていたのであるが、結果は意外にも天野先生に呼びつけられて、『生徒が先生に対してかれこれいうは不都合である、不満ならば退校せよ』と頭から叱りつけられ、そのままになってしまった。
 運動会に角力を取って五人を抜き、賞として鉛筆一打を貰ったなどの思い出もある。下宿では貸本屋が車を引いてまわって来るので、それをよく借りて読んだ。「佳人の奇遇」「雪中梅」「経国美談」等、おもに政治小説であった。
 同時代に在学した人では、金子馬治、津田左右吉、塩沢昌貞の諸博士および木下尚江、田川大吉郎、坪谷善四郎、森弁次郎の諸氏がある。また宮崎湖處子、安江稲次郎、宮井章景、三原武人の四人は特に兄弟のように親しくしたが、惜しいかな今はことごとく故人となった。
 しかし当時、私に最も大きな影響を与えたのは、学校よりも教会であった。私は早稲田に入ると、その十七歳の夏頃から友人に誘われて、牛込市ヶ谷の牛込教会へ行くようになった。十三歳の春に始まった私の寄宿舎ないし下宿屋生活はまことに殺風景で、いま思えば私はこの間にかなり人間としての自分を枯らしたように思うが、その反対に教会ではうるおいゆたかな雰囲気に浸ることが出来た。日曜日の午前十時から礼拝説教、それから教友らとパンの昼食を済まし、また午後の種々の集まりに出席するのであったが、ここでは年長者は父母の如く、あるいは兄姉の如く、若き者は弟妹の如くで、じつに和気|靄々《あいあい》たるものがあった。私は宮崎湖處子、金子馬治、野々村戒三等の早稲田派は申すまでもないが、矢島楫子女史、大関和子、三谷民子女史とも相識り、また基督《キリスト》教界の元老押川方義、植村正久、内村鑑三、松村介石、本田庸一、小崎弘道、服部綾雄等の諸先生にも教えを受ける機会を得た。その他島田三郎、巌本善治、津田仙、山室軍平、また島田三郎氏からの縁で田口卯吉氏に接することを得たのも、この教えに連なった幸いというべきであろう。しかしまた当然の結果として、財界政界の方面には一人の友人をも持つことが出来なかったのである。また当時目白にはかの有名な雲照律師がおられたが、目白と早稲田と目と鼻の間でいながら、私は基督教徒であるため、ついに一度も律師の教えを聴きに行かなかった。今思えばじつに惜しいことをしたものである。その時分の基督教徒は仏教を時代後れとして、全く顧みなかったのである。
 早稲田を卒業すると私は一年ほど北海道に行った。この時分の北海道行きはまるで外国へでも行くようであった。まだ鉄道は青森まで通じていなかったので、横浜から船に乗り、函館を経て小樽に上陸、札幌に着いた。私は月給取りになるのがいやで、開墾最中の北海道なら何か面白い仕事があるだろうと、はるばる求めに行ったのであるが、実際私の目に映った当時の札幌は素晴しかった。内地ではいかに新しくといっても伝統があるから徐々に新様式を盛って行くが、北海道は全くの新天地、すべて米国式に思い切って目新しい。私はここへも教会の縁故で矢島楫子女史からそのお弟子の藤村頴子女史に紹介をもらって行ったのであった。女史は札幌の北星女学校に教鞭を取っておられたが、私はかねて津田仙氏、安藤太郎氏などの禁酒運動に共鳴して禁酒会員となっていたから、さらに女史とその夫君藤村信吉氏の紹介で、北海道における禁酒会長の伊藤一隆氏その他の人とも親しくすることが出来た。
 さて滞留一周年の実地見学で、私はいよいよ北海道が将来有望の地であることを信じ、とりあえず相当の土地を札幌郊外に購入することを思い立って、出資を郷里に求むべく大いに望みを抱いて帰郷した。
 しかしその話は郷里において長兄の賛成を得ることが出来ず、したがって私はそのまま郷里に止まるほかなかった。長兄夫婦には子供がなかったので、私を相続人に定めていたし、当時は北海道といっても田舎の者には想像もつかず、とにかくあまり遠方だからとて、ついに問題にならなかったのである。
 私はこの一年の北海道滞留中に、雇われることの嫌いな人間が、妙なことで至って不面目な給金取りの経験をした。それは札幌市内の桑園という土地で、信州出身の金子氏の家に客となっているうち、北海炭鉱会社の社長が、大邸宅を営造するに際し、大木を他から移植するために、三十人の臨時雇いを金子氏が頼まれた。ところがその人夫は二十九人まで出来て、あともう一人が急のことで間に合わない。そこで金子氏が折入っての頼みで、私はそこへ顔だけ出すことになった。むろん何の役にも立ちはしない。大木の後に取りついて、大勢と一緒にヤーと掛け声をするだけで、日給三十銭也の分配に預ったのである。当時札幌では手不足のため、どんな無能の者でも顔さえ出せば三十銭から三十五銭の手当をもらえたもので、この臨時雇いを出面取りといっていた。すなわち面さえ出せばよかったのである。当時の三十銭は今日の二円くらいに当る。とにかく六十九歳の今日までに、私が人から給金をもらったのは、後にも前にもこの時の三十銭限りである。

 郷里に帰って私は養蚕の研究をした。当時生糸の海外取引は非常な勢いで、年々増加するばかりであった。したがって養蚕は盛んで、これまで下々の下国といわれた信州も、養蚕でにわかに一王国を出現したかの観があった。しかし養蚕の方法に至っては、これに関する書もすでに百種くらい現れていたが、大同小異、特にこれはと敬服されるものもなかった。そして残念なことに私がこれらの書物によって教えられた養蚕は失敗が多く、期待していてくれる家人に対しても毎度面目ないことであった。私はこの不充分な研究書に愛想をつかしながらなおも良書を探していると、福島県の人半谷清寿氏著の「養蚕原論」があらわれ、私はこれを見て初めてここだなと肯くところがあったのである。
「養蚕原論」にヒントを得た私は、改めて根本的に研究し直すことを思い立ち、それから西は遠く丹波まで、また北に東に名のある養蚕地を訪ねて見学し、福島県では菅野、丹治、群馬では深沢、田島等の諸氏を訪問して直接教えを受け、その他多くの古老に質し、他方実地の研究も進んで確信を得たので、これを著述し、「蚕種製造論」と題して、田口卯吉氏の経済雑誌社から出版したことは前に述べた通りだ。(菊版百九十頁、定価五十銭、明治二十七年二月発行)
 ついで「秋蚕飼育法」(四六版八十頁、定価十五銭)を著し、友人竹沢章氏の蚕業新報社より発行したが、これは五万部も売れて、あれを読んでお蔭で好結果を得たといって礼状もたくさん来たし、わざわざ遠く九州辺りから私のところへ講習を受けに来た人も少なくなかった。私はその後養蚕から全く離れてしまったが、今でも養蚕の話を聞くと旧友に会ったようななつかしみを感ずるのである。

 蚕種製造家として郷里に落着くとともに、私の周囲には自然近辺の青年たちが集って来るようになった。都会に憧れ、新しい知識を求めてやまぬ田舎の若者たちにしてみれば、私が東京の学校を卒業して帰ったというだけで充分興味があったのであろう。私はこれらの青年に基督《キリスト》の話をし、禁酒をすすめた。若者たちはみなよく聴いてくれて、彼らはついに畑仕事の間にもふところに聖書を入れているまでになった。
 信州は維新当時廃仏毀釈の行われた所であるだけに、外来の新宗教の入り易い点があった。近村にはすでにメソヂスト派の牧師がおり、土地で名の知られている青年三沢亀太郎氏もすでに信者になっていた。私はこの三沢氏とともに牧師を援けて伝道演説をするようになり、寒い夜でも彼方の村此方の村と集まりに出かけて、ずいぶん熱心に説きまわった。また禁酒会を起し、会員数十名に上り、自分がその会長になった。これには内村鑑三先生や山室軍平氏なども応援演説に来会され、心から共鳴する青年が続々とあらわれて、中でも第一に殉教的熱情を示したものに井口喜源治氏があった。
 井口君は中学校での同級生で、当時穂高小学校の首席訓導であったが、彼の信仰はついにその教え子に及び、荻原守衛その他の生徒が信者になった。最初冷静に見て居った校長もこれに驚き、生徒が学校に来て基督教になるようでは父兄に対して相済まぬというわけで、井口氏を他校に転任させようとした。そこで井口氏の辞職となり、我々友人は井口氏を他村に送るに忍びず、また学校の態度にも憤慨したので、村の有力者臼井喜代氏や長兄安兵衛その他の有志と力を合わせ、新たに井口氏を推して研成義塾を設け、町村とは全く独立した高等科の単級教授を開始したのである。時は明治三十一年の秋、私も井口氏も同じ二十九歳であった。

 さて井口君はこの研成義塾を守って、去る昭和七年の十月病いを得て退くまで、じつに三十五年間全く一日の如く奮闘した。村の子供の多くは穂高小学校の尋常科を終るとそのままそこの高等科に残り、特に理解のある家の子弟だけが研成義塾に入った。私の長女の俊子なども高等科の課程はここで受けたのであった。
 そんなわけでむろん生徒の多かろうはずはなく、研成義塾の経営は初めから楽でなかったが、井口君は毅然として塾を守り、自分の理想とするところの教育を、信ずるままに行い来たった。井口君は厳粛な基督教徒であるとともに、一面また文学的で、かの正岡子規の流れを汲み、それが塾の教育にあらわれて、生徒の中には文芸美術を愛する者が多く、ついに芸術に身を捧げて世に知られたのは荻原守衛(碌山)であった。その他なお二、三その道に志した者があるが、現在評論家として聞える清沢冽氏、朝日新聞の久保田栄吉氏も、少年時代は研成義塾に学ばれたことである。
 井口氏は最初そういう事情で独立したのであったから、教育界からは一種の反逆児として見られ、世間一般からも甚だしく毛色が異って、円満に迎えられることが出来ず、社会的経済的に苦しめられたことは想像以上で、全く気の毒な有様であった。けれども一方、基督教界の人々には一個の英雄として尊敬され、内村先生なども氏を明治の中江藤樹、信濃聖人とまで賞讃されたものであった。
 私は井口君がその一生を通じてこの信念に専らにして、少しも遅滞するところなかった勇猛心に対して、心から敬意を捧げるものであるが、君をしてかかる不遇の生涯を送らしめたその源はといえば、自分が基督教と禁酒主義を故郷に移し入れたに因《よ》る。私はいまこれを思うてじつに感慨に堪えぬのである。
 当時の基督教は全く亜米利加直輸入で、我が国情の異なるままを疑いもせず行おうとした。私は基督教が日本の文化に与えた功績を決して見落すものではないが、これを丸呑みにしてことごとく欧米の風習通りに遵《したが》わねばならぬとした宗教界の先輩や牧師等の不見識は、玉に疵の憾みなきを得ない。
 前に、内村先生が中村屋の日曜休業を勧められたところでも述べたが、あれほどの先生ですらこの宗教の前にはやはりこの丸呑みをあえてして、選択の自由を失っているかの観があったのである。日本人としては根本的に首肯し難い、そして単に一つの風習にすぎないようなものでも、宗教の一要素である如く考えるところから、基督教に殉ずるためには信者はじつに世間を狭く、郷党や知友との反目も余儀なくさせられたものがあったのである。
 井口氏を初めとして、この塾に学んだ生徒およびこれに接近した人々も、宗教に対す
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