間修業をして欲しいのである。その上に事業に対する熱意があるならば、志は必ず酬いられねばならない。
以上私はのれん[#「のれん」に傍点]分けの困難な理由、今の商売の容易でないことのみを述べたが、一方また現代は多くの新しい仕事と働き場所をもって諸君の進出を待っているのである。徳川時代三百年間に、日本の人口はおよそ二千五百万人から三千万人に増加したのみであるという。それが維新以来今日まで僅か七十年の間に三千万人の人口は七千万人に上り、しかもこれは内地在住の者のみを数えたのであって、この他に海外に出て大いに発展している同胞のあることを思えば、我々は何という勢い盛んな時代に生れたものであろう。そうして新時代の文化の複雑さはどれほど我々を恵み、我々の仕事をふやしていてくれるか知れない。のれん[#「のれん」に傍点]分けの望みこそ失せても、独自の道は開けている。諸君はこの新時代の新人として世に立つべく、大いに勇往|邁進《まいしん》すべきである。研究を怠り、また己を鍛えることを忘れて青春の時代を漫然と過ごした者は、やがて世間に出て落伍者とならねばならない。我々は諸君の大切な若き日に充分の自覚と正しき努力とを望み、中村屋が諸君の真によき道場とならんことを願うものである。
店員のために学校設立
日々忙しい労務に従う店員諸君のために充分な休日を与えることと、修養勉学の機関をつくることとは、私の長年の願いであった。しかもこの二つは何でもなく出来そうに見えて、じつはなかなか難かしく、今も休みは不充分であり、ことに勉学の方は近年まで全く手をつけることが出来ないでいたのである。ただ夜分だけは早く休息させたいと思い、平日は午後七時閉店、日曜大祭日は特に忙しいことであるから五時閉店として、本郷から新宿に移転以来ずっとこれを実行して来たのであるが、その後新宿の盛り場としての発展と、別に述べたような百貨店の進出による事情などで、やむを得ず営業時間を九時までと改め、さらに十時まで延長、そこで三部制(販売部)を取ることになって、現在のように朝七時出は午後五時まで、九時出は七時まで、正午出は十時までの受持とし、各十時間勤務と改めたのであった。また月二回の全員定休日のほかに、交替でさらに月一回の休みをつくり、これでやや改善されたが、毎年四月、十二月などのとりわけ忙しい月はまだまだ過労の様子が見られ、さらに進んで一週一日の休みと勤務時間短縮の必要が考えられるのである。そうしてこれが実行されれば長年の我々の願いもようやく成就するのであって、今はその日の一日も早く至らんことを希望している。
少年諸君のための勉学の道はようやく昭和十二年五月着手、矢吹慶輝博士の御指導によって、文学士谷山恵林氏以下五人の良師を得、工場の一部にとりあえずごく小規模の教室を設け、研成学院と名づけ、とにかく開校することが出来たのはまことに同慶に堪えない。しかし研成学院はまだ全く未知数に属し、成功か不成功か予想は許されないが、先生方の熱心と諸君の倦《う》まざる努力によって、好結果をあげることが出来ればまことに幸いである。五月十八日開校式の際私が諸君に述べたところをここに再録して、この稿を結ぶことにする。
中村屋は諸君も御承知の通り、もう三十六年の歴史を有しております。初めのほどは、夜学をしたいという店員には通学の便利を与えておりました。そのため夜学に行く人も多くあり、現在計理士の新居氏や満鉄の図書館長勝家氏等も、その頃店で働きながら大学の夜学部に通うてあれだけの出世をしたのであります。しかしだんだん世の中が切迫して、学校の方も学課がむつかしくなり、また真剣に学ばなければ競争上やって行けないというようなことになり、我が中村屋も以前よりは幾倍忙しくなって、店に働きながら夜学に通うことはどうも無理だと考えているうちに、夜学に行く者はだいぶ健康を損じて、そのうちには死ぬ者さえも出たので、これではならぬ、二兎を追う者は一兎を獲ずという諺の通りで、学問もしよう、店の仕事もおぼえようというのでは双方とも駄目であると分ったので、学問をしたいものは他所に行き、商売に志すものは業務に専心すべしとして、十年ほど前から夜学に通うことを禁じてしまった。
その結果病人は少なくなり、健康状態は著しく良くなったけれども、最近中村屋も、以前の十二、三時間も働いたのを十時間制に改めて、少しく時間に余裕が出来たところから、ひそかに会話等を習いに行く者もあると聞いたので、若い者の学問をしたいというこの希望の若干を叶《かな》えてやりたい、健康を悪くしない程度で、と考え、ようやくその案が立ち、またきわめて適任な先生が見当ったので、仕事のかたわらその休み時間を利用して学問を少しさせようじゃないかと、今度この学院を建てることにしたわけである。それゆえ各自には一週間僅か四時間だけの授業をするのみである。それくらいなら体にも仕事にも差支えなくて、かえってそこに面白味も出るだろう。この僅かの時間の勉強でもこれを長年続けるならば、人生に必要なる知識を得る不足はないと信じている。自分が先年欧州に行った時、識者の間でだいぶ問題になっているデンマークの国を訪ねて見た。この国は諸君も地理で知っていることであろうが、じつに小さい国で、我が九州にも及ばぬくらいの大きさである。さように小さく甚だ貧弱で気の毒な国であった。ところがそこにグルンドウィヒという偉い教育家が生れ、デンマークをいつまでもこういう憐れな国にしていてはならない、何とかしなければならぬというところから、この人の発案で、国民高等学校というのを拵《こしら》え、農家の子弟や商店の徒弟を冬の暇な時に集めて、少しばかりの学問を授ける。それも農家の子弟に農業のことを教えるのでなく、商店の者に商売のことを教えるのでもない。そういう職業には直接関係のない、国の歴史とか宗教とか、主として人間を高尚にする学問を教える。まあ大学の初歩のようなものである。
その学校の成績が非常に宜しかったので、同じものが全国にいくつも建てられ、デンマークは今日では世界の模範国と称されるほどになった。それが僅か三、四十年前のことである。この学院もその国民高等学校の趣旨を少しくお手本に取ったものである。ここで諸君が仕事のかたわらの勉強によって、デンマークの学校と同じような効果が現れることになれば、諸君にとって、また我が日本国にとって非常によいことである。ここがうまく行けば余所《よそ》でも真似るようにならぬものでもなかろう。それは諸君の勉強の如何によるのである。こういう趣意であるから、そのつもりで奮発して下さい。
[#改丁]
別記
研成学院と往年の思い出
私は自分の過去を語ることにはあまり興味がない。孫たちはだんだん大きくなるし、店には大勢の少年諸君が、希望に燃えて溌剌《はつらつ》として働いている。もし私によい思い出があって折にふれて話してやれるようだったら、私にとってもそれは明らかに喜びであるのだが、不幸にして私の過去は一向に味がなく、むしろ慚愧すべきもののみ多い。
ところが今度中村屋は少年諸君のために学校を開いて、これに「研成学院」と命名した。私が幼年のころ学んだ小学校が「研成学校」であり、青年時代に同志と共に創立したのが「研成義塾」であって、私と研成という名には離れられない因縁があるらしい。そこでこの研成学校と研成義塾のことについて、一つは反省のため、また一つには研成学院のよき成長を祈るために、参考として書いておこうと思うのである。
研成学校は明治五年の頃、長野県で最初に設けられた小学校であった。私の生れたのは信州安曇郡穂高村の白金という所で、この研成学校は、家から十二、三丁のところにあった。
私の家は穂高村でもずいぶん古く、家で祀った産土神が現在村の氏神になっているほどで、祖父安兵衛までは代々庄屋を勤め、苗字帯刀御免、相馬という姓から見ても、また家伝の接骨術などあるのを見ても、ただの百姓ではないことは判っていたが、土蔵の梁から一巻の記録があらわれたのは、後に私たちが東京へ出てからのことで、それを発見したのは当時十歳で国許《くにもと》にいた安雄のいたずらの手柄ともいうべく、彼が土蔵の天井裏に這い上って、妙な包み物が梁にくくりつけてあるのを見つけ、それを取り下ろして調べて見ると、それが相馬家の系図であって、相馬は遠く平将門を祖とすることが判り、別に川中島の戦いにおける武田信玄の感状なども添うているところを見ると、私どもの祖先はその時代に武田の客将となって信州に入り、ついにそれが永住の地となったものであるらしい。
私はそういう家に生れたが、二歳にして父を失い、七歳で母にも死に別れ、長兄夫婦に育てられた。長兄は私より十五歳上、嫂は十歳上であったから、まだ本当の若夫婦で、子供の養育に経験のある筈はない。ただ早く父母に別れた幼弟を憐れがって我が子のように鍾愛し、私が親のないことを不幸だと思ったことは一度もないくらい、それは大切にしてくれたものであった。
私が十三歳になると、兄夫婦は私の教育を完全にしてやろうと考え、通学に不便なほどの道でもないのに、研成学校の寄宿舎に入れてくれた。費用もかかることであるのに、それを惜しまず兄がこの方法をとったことから見ても、当時の研成学校のいかに名高く、また地元の信頼を受けていたかが分るであろう。地元ばかりでなく、その名は信州全体に響いていたので、遠方から来て学ぶ者が少なくない。それゆえ校舎の二階に寄宿の設けが出来ていたのであった。
兄はためを思うて入れてくれたのだが、寄宿舎生活は兄が考えていたような理想的なものではなかった。同じ年頃の者が揃うているのならよいが、なにぶん他にこれという学習機関のないその時分のことである。寄宿舎にいるのは私より三、四歳ないし十歳も年長の、もう立派な青年であった。したがって彼らはすでにさまざまな悪習慣をその身に持っている。そして指導者は一向にそれに気付かないのであったから、先生の眼を離れた二階ではいろいろ思いのほかのことが行われた。
最年少者の私は家を出て最初のこの見聞に驚きながらも、しらずしらずこれが寄宿舎の風かと思うようにもなった。これはまことに不幸なことで、男ばかりの殺風景な寮舎の生活は決して健全なものではなかったのである。
やがて私は松本の中学校に入ったが、ここの寄宿舎生活も、年少の身にとって決して幸福とはいえるものではなかった。ここでは後に帝大教授となった加藤正治(当時平林)氏など同級で、また先輩としては木下尚江氏、大場又二郎氏などを知り、ことに木下氏とは交遊最も長く五十年に及び、ついに昨年その死を見送ったが、この中学校を私は三年で出てしまった。私は数学だけは校中第一といわれるほど出来たが、英語は全く駄目であった。三年級も終りに近づく頃考えて見ると、どうもこの英語では進級出来そうもない。現級に止まるのはいやだし、面倒くさい、この勉強は飛ばしてしまえという気になり、三月早々退校して上京してしまった。何でもその中学校での思い出の中に、嫂の縫ってくれた赤い裏の羽織を着ていて大いに笑われたことがある。これで見ても中学生である当時の私の幼稚さ加減が判るようだが、兄夫婦は私の願いを容れて早稲田に学ぶことを許し、私は家から二十余里の道を歩いて途中一泊し、碓氷峠の麓のたしか今の横川駅から、生れて初めて汽車に乗って上京した。汽車はまだあれまでしか来ていなかったのである。
早稲田大学はその時分東京専門学校といい、早稲田の土地も今とは大違いで、一面の田圃、ことに甚だしい低湿地で地盤がゆるく、田の畝を少し力を入れて踏むと四、五間先まで揺れたもので、稲田の間にはところどころ茗荷《みょうが》畑があり、これが早稲田の名物であった。大隈伯の邸宅と相対して、小高い茶畑の丘の一部に建てられたのが専門学校であった。たしか明治十五年創立で、当時は至って入学者少なく、明治十七年第一回の卒業生を出した時は、僅か十二名であったが、私の卒業した二十三年の第七回
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