に至極簡単でしたけれど、歳暮と年玉は山のように積まれ、私はそれをまとめて整理しておき、新年宴会の席上で福引として一同に分配しました。しかしなにぶん人数の多いことですから、私の方からも相当追加するのでなければみなに行き渡るだけはなかった。
福引のことだから十四、五歳の小店員に、大人物のシャツや煙草が当ったり、職長級の人にお多福の面が行くというわけで、そのつど拍手喝釆しているけれど、その実、貰ってあまり有難いとも思えないものもあるわけです。ただ私は問屋が日頃の引立てに対する感謝の意としてきわめて素直に受け、主人が独りで納むべきものではないから、贈物全部を皆に分配して至極いい気持になっていたのでしたが、いつの間にか問屋と店員の間に忌わしい関係を生じて来ました。今まで正直一途の模範店員であったものが、この問屋の手管にしかと押えられ、しらずしらずに堕落しつつあることを知った時の私の失望と悲しみはどうであったか、これはあなた方にもよく聞いておいてもらいたいのです。
これは問屋の主人よりも外交員が悪いのです。仕入部あるいは重要な地位にある店員を抱き込み、内々金品を与えて否応なしに人情に訴えて不正取引をやらせるのです。問屋のこの手にかかった番頭は二等品を納めておいて主人には一等品として支払わせて、その間の利益を着服するなど、だんだん深味に足を踏み込んで取返しのつかぬ始末となるのです。先方の番頭は充分世才に長じ、人情の弱点を心得ているから、決して初めからお金などを持っては来ないのです。例えば小手調べに活動の切符などを持って来て、お暇ならどうですという。こちらはたかが活動の切符だと気にもしないが、日付を見ると何日とある。ちょうど用事も片付いた、ただ捨てるのも惜しい気がしてうかと行って見る。次には芝居の切符を持って来る。これが無事通過すればもうしめたもの、今度は飲食店に誘う。この辺からフルスピードで魔窟に急転直下するのです。すでにここまで転落すれば給与される金ではとうてい足りないから、朋輩に金を借り、ついには主人の金品を胡魔化《ごまか》す、仕入部と工場に忌わしい連絡が結ばれる、とうとう陥る所までおちて馘首《かくしゅ》され、昨日の店員も今日からは他人となり縁が絶えてしまう。こうして将来ある青年をあたら中途で堕落させたことも幾度か、やはりここにも主人として重大な責任のあることを思い、深く心を悩ますのです。
ついに長年行われていた中元歳暮の旧慣を廃し、絶対に問屋からつけとどけの物品を受けないことにして、ただちに問屋にその旨通告して諒解を乞うた。それでも名実ともに物を贈らぬ受けとらぬという店の鉄則を実行するには、相当の年数を要しました。
商人の妻はお内儀さん
私は本郷に店を持つとともに、先代中村屋のいっさいを継承しました。店員女中ばかりでなく、主婦をお内儀《かみ》さんと呼ばせることまで受けつぎました。いったい小売商人の家内を誰も奥さんとはいいません。奥さんは官吏あるいは教職にある人の夫人等、すべて月給生活をしている人の夫人にふさわしい称号ですが、小売店の主婦をお内儀《かみ》さんというのはこれも最も適当な称び方だと思うのです。それゆえ私は今でもあなた方にお内儀さんといわせ、奥さんとは決して称ばせない。うっかりあなた方が奥さんと私を呼ぶと、私はそっぽを向いて返事をしません。
もし皆さんがお内儀さんというのを奥さんというのより低いと思うならば、それはたいへんな間違いです。夫人あるいは奥さんの仕事の範囲は、いわゆる奥の仕事で、おもに家庭に属する雑多なものです。が、お内儀さんの方は少しく趣きを異にして、家業の仕事の過半を受け持ち、中にはほとんど八、九分まで担当し、残る一、二分が主人の領分となっている家もあるのです。別に権利義務を云々しなくともお内儀さんの命令は行われ、自ずから威厳が保たれる。いうまでもなくこれはそのお内儀さんの徳と手腕によることで、お内儀さんだからいうことをきくというのではありませんが、とにかくお内儀さんは決して軽蔑どころでなく、正に千鈞の重みを感ぜしめる。それだのに女はどうしてお内儀さんといわれるのを好まないのであろうか。少なくともあなた方は店頭《みせさき》で私を奥さんと呼ばないように注意して下さい。
主人主婦と店員の例会
主人は病気でない限り毎日店に出勤して、報告を聴取したり指図したり、工場を見まわり、店や喫茶部の飾りつけに注意を与えたり、またものの決裁と人事に関するいっさいを主人自らやっていることをあなた方はよく知っている。しかし全店員と顔を合わせることはほとんど不可能です。まして私は二十年来病弱の身となり、昔のように立ち働いたり店頭に立って若い皆さんと仕事をするということは出来ない。したがって店に行くことさ
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