生であった安雄は古参の店員たちや支配人に説かれて賛成の意を表し、妹の千香子に実印を出させて契約証に捺印してしまったという。私は全身がふるえるほど、彼らの浅見と軽率が心外でならなかったのです。
 しかし私は思うところあって、直接そのことに関係した人たちには何も言わず、代表的に安雄一人を極度に叱りその不心得を責めました。主人や主婦の不在をことさらうかがったというわけでもなかったでしょうが、帰京の時期も判っているのに、それをも待ち切れず従来の方針を覆したことは、中村屋の存亡にもかかわる一大事でありました。
 初め中村屋を株式組織に改めた時、私たちは店員の年功者に一銭の払い込みもさせず、株式を贈与しました。それゆえその人たちは株主となり、自ずと権利を主張するようになったものと思われるが、これでは我々の好意がかえって彼らに害を与えたことになるのでした。彼らは権利は勝手に行使するが、義務のあることを知らない。それゆえこういう事態を惹き起したのではないか。これは悪かったと、私はまず自分たちを反省せずにはいられなかったのです。
 私は少しぐらいの損をしても早く取り消すことを主張しました。が主人は寛大に見て、せっかく皆がよかれと思ってしたことだからと言って、とにかく開店することにしました。私も不本意ながらしぶしぶ主人の言に従わざるを得なかったのです。大正十五年十二月でした。
 翌年の正月早々には文雄が南米に立つことになっていました。で、とりあえずそれまでの一月を最後の孝養として文雄がそちらの店番をすることになり、開店はたしか十二月の初め、いよいよ蓋をあけて見ると果たして店員たちの期待ははずれました。彼らはこの新しい支店で毎日三百円の売上げを予想しました。当時の中村屋としてはすでに相当繁昌していましたから、少し拍車をかければ現在のままでも三百円の増加を見ることは不可能ではなかったのですが、何を苦しんで四千円を投じて支店を設ける必要があったのか、あまりに認識の欠けているのを憫れまずにはいられない。
 とにかく開業当日に百円の売上げがありましたが、翌日は八十円に減じ、六十円になり、とうとう三十円台にまで落ちてしまった。店員たちも文雄が売上げの財布を持ち帰り、それを数えて見て、初めて自分たちの認識の誤りに気がついたが、もう遅かったのです。年末を目前に控えて中村屋は一大危機に直面しました。この上は少しでも犠牲を減ずるために、一日も早く閉店することを主人に進言しましたが、あくまで寛大な主人は『まあこの暮だけはこのままにしておけ』というので、仕方なしに来春を待つことにしました。
 二十五日は大正天皇の崩御遊ばされた悲しき日でありました。市民は御重態の発表を知るや、一刻も早く御悩の去らんことを祈りつつ、街々は迎春の用意に商店の軒先も注連繩《しめなわ》を張り、吉例の松飾りを立てつつ安き心はなかったのです。ついに陛下は神去りまして世はまるで火の消えたよう、あらゆるものは黒一色に塗りかえられてしまいました。
 かくて上下憂愁のうちに諒闇《りょうあん》の春を迎え、昭和二年の御代となりました。
 文雄は正月四日神戸を出帆して南米に向かいました。諒闇のこととて店でも新年宴会を慎しみ、丼で済ませ、地獄の釜の蓋もあくという正月十六日のお賽日は一日店を休ませました。それから株を与えてある店員十名を、改築前の広間に招き、主人から旧冬代々木初台に開設した支店を断然閉鎖すること、設備費数千円の損害は諸君の生きた学問の月謝として清く諦めること、閉鎖する支店に未練を持ち継続することを許さず、なお前に贈与した株式は払込額面の一割増しで主人が即時買い戻すことを通告して、現金を店員たちの前に出しました。もちろん彼らに異存のあろう筈はなく、時ならぬ現金を懐中にしてその場を引き下がりました。しかしひそかに冷汗を拭うた者もあることでしょう。
 私たち二人はかように清算したことによって気持も晴れ、多くの教訓を得て、もはや数千円の損失などは問題ではなく、これで我が中村屋も雨降って地固まる、いよいよここに基礎が定まりました。
 中村屋は今や年とともに外観内容ようやく整頓しつつあり、ますます発展の途上にあるのは有難いことではあるが、何時も順風に帆を上げて走れるものと思うてはいけない。すでにこれまでにたびたび停滞頓挫、また数々の失敗を体験していることを忘れてはならない。この失敗の上に初めて一人一業また一人一店の中村屋精神が定まったのであることを、皆さんもよくよく理解してもらいたいのであります。

    問屋のつけとどけを受けぬこと

 毎年正月の新年宴会は、中村屋の最も楽しい行事の一つとして、かなり賑やかに行われたものでした。
 問屋から贈られるいわゆる中元の品物は、七月十六日の盆休みに店員一同に分配するの
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