ならず、いたずらに時間が経って燃料は煙になってしまう。何よりもつらいのは明日の註文が後れて間に[#「間に」は底本では「問に」]合わなくなることでした。損失は諦めるとしても、節季の餅はどちら様でも祝儀のものですから間違いがあってはならぬ、この心配でほんとうに身も細るようでした。
暁方からは配達、近所は籠に入れ自転車で、遠方は大八車でまわりました。雨や雪が降るとその運搬の苦労なこと一通りではなかったのです。その頃は何しろ道がわるく、屋敷町などは泥濘に車輪を喰い込まれて途方にくれることがしばしばで、夜九時過ぎになってやっと戻ることさえありました。南信から来た常どんはその頃まだ十四、五歳、小柄であったが、忙しいからお前も配達しろと先輩にいわれて、餅をのせ自転車で新宿御苑の塀に添うた片側路を雪を蹴って走るうち、中心を失って溝の中に転がり落ちた。ちょうど通りかかった職人風の人に救い上げられ、常どんはべそをかきながらぬれねずみになって戻って来ました。骨の髄までしみ透る寒さにふるえ、泣いて報告する常どんを見た時は「雪の日やあれも人の子樽ひろい」の句を思い、ひそかに憐れでなりませんでした。
当時まだ小学生であった安雄も、餅搗きには印ばんてんや「あつし」を着て配達の手伝いをしました。冬の休みを利用して仙台から中学生の甥も見学だと称して出京し、安雄とコンビになって荷車の後押しや餅配達をやりました。
その中でのおかしい話。西大久保のおとくいに夕方餅を配達すると、女中さんはこんな固いお餅じゃ切るのに骨が折れるのではないかとさんざんのお叱言、上餅は早く固くなるもので、陸稲《おかぼ》の粗悪な餅はいつまでもやわらかで伸びるものですが、安値な大福餅が夜になっても固くならないのは道理なのです。しかし先方の女中さんもこちらもそんなことを知らないからただ恐縮して、それならば搗きたてのお餅と取りかえて上げますといって、その餅を持ち帰りました。翌日甥と安雄はまだ温味の残っているのし餅をお届けしました。女中さんは大喜びで受け取ろうとすると、餅と餅がくっついて離れない。それを無理に引き離そうとして持ち上げたところ、四角にのした餅が伸びて形がつぶれてしまいました。けれど女中さんは自分の註文なので再び小僧を叱るわけには行かず、不承不承に受け取ったがいったいあの餅はどうなったろうという報告に、お気の毒やらおかしいやら、全く忙しい節季の仕事中には思わぬ笑いを恵まれました。現在の安雄は主人代理として、帳場で主人の傍に坐っているけれど、かつてはこうしてあなた方の仲間で、年末ばかりでなく五月の節句にも中学を休んでまで家業の手伝いをしたものです。
一人一店主義の教訓
中村屋は元来一小個人商店にすぎないものでしたが、税金の関係と当時の社会情勢に鑑み、大英断をもって株式組織に改めました。大正十二年の春でした。それまでは営業人の名は主婦良で、実際主婦が主になって営業をして来ましたが、株式会社にする時、主人を社長とし、主婦を大株主と定めたので、これは主人の書いたものですでにみな承知でしょう。
ある秋のこと、松の実の相場が急に暴騰しました。私どもはその原因を調べるために両人同道で京城に行きましたが、調査して驚いたことは松の実の暴騰が仲買人の責任でもなく、荷主が悪いのでもなく、全くこれは私たち自身が値上げをしたようなものであったのです。京城の市場に行って見ると、田舎の百姓たちが一升二升あるいは三升と松の実を市場に持って来る。それを寄せ集めて何斗何石という数にまとめるのであって、内地で考えているように収穫の季節に大量仕入れをすることは、朝鮮人の手では不可能であったのです。もし一時に大量な仕入れをするならば勢い価が上がらざるを得ないわけで、私どもはその事情を知らずに、内地で秋の初めに一ヶ年使用する栗を仕入れする呼吸で松の実を多量に註文したものですから、京城では非常に驚き、にわかに諸所から少量ずつ松の実を集めるために、自然相場が上がったのでした。初め私どもは朝鮮人の仕事にもと思って取引をした松の実でしたが、商品として取り扱うのはまだまだいろいろ不便があって、結局内地人の手を経なければ商品にならないということになったのは、まことに残念でなりません。
朝鮮からの帰途、下関に上陸、それから九州を一巡して帰京しましたが、その間三週間ほど留守にした次第です。ところが店に戻るや驚くべき報告に接しました。それは我々の不在中に、支店を代々木初台の市場に設けることに決定したという、全く寝耳に水とはこのことでした。当時支配人格で店の手伝いをしていた人と年長店員たちの思いつきだという。この人たちは何に血迷ったのでしょうか。
千香子は幼少から店の手伝いをしていた関係上、主人の実印を預っていました。当時大学
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