きまでに精根を傾けて本格的に帳簿の整理を行いましたが、まだ後に倉庫の確立、仕入部と工場との浄化の実現という最も至難な仕事を遺して、洋々たる前途を望みながら惜しくも彼は逝ってしまいました。
 その前後に果たして中村屋内部の危機が迫って来ました。その結果として製パン工場に一大廓清が行われ、職長並びに部下数名の退店等のことがあって、各部戦々として不安の色がありましたが、歪めるものを直くするには周囲に多少の動揺は免れないものです。

    年始まわり

 本郷森川町といえば昔から学校街で、商店はほとんど教授方と学生目当てのものばかりでした。だから顧客の範囲も至って狭く、森川町一円、東片町、西片町、曙町、弥生町、少し離れて駕籠町、神明町辺りが止りでしたから、新年には顧客先を私自身一軒一軒年始まわりをしたものです。先代の中村さんは配達の小僧に名入りの手拭いを持たせてやったと聞きましたが、私どもはどうしても主婦自身伺うべきだと考えたのです。お勝手口から『中村屋でございます』と御挨拶すると、奥からわざわざ奥様がお出ましになって『まあ中村屋さん、こんな所からでなく玄関の方におまわり下さい』といとも御丁重な応待で、かえってこちらが恐縮しました。目白の女子大学の寮のお勝手口にもたびたび伺いました。これがまたお客様と店との親しみを深める因にもなり、双方で商売を離れた一種の情味を生じました。御用伺いに出る小僧に『この頃おかみさんの姿が見えないが、変りはないか』とお尋ねに預かり、私は産褥《さんじょく》でこれを聞いて心から有難く思い、またそちらにおめでたがあれば嬉しく、御不幸ときいては心が痛みました。
 新宿に移ってからはおとくいも多く、また広範囲にわたって、それに交通はまだ今のようでなく、ことに郊外は泥濘膝を没する有様でしたから、霜どけ路に進退きわまり立往生することもしばしばでしたが、年に一度の年始まわりだけはどうしても私がすることにしていました。それが昭和三年まで続きました。そのうち私はだんだん健康を害し、やむを得ず次女千香子に代理させました。千香子の結婚後は長男安雄が後を受けて年々続けて来たのでしたが、だんだんおとくいが増加し、また店に来て頂くお客様の方が幾倍する状態となってついに本郷以来の慣例を、不本意ながら廃せねばならない次第となりました。

    鳥居博士御一家

 考古学の泰斗《たいと》鳥居龍蔵博士の御家庭は、創業当時の中村屋にとり大切なおとくいでした。一つにはその思い出をあらたにし、またあなた方に学徳ともに高き先生のお教えを頂くために、先だって淀橋公会堂で博士の御講演をお願いしたのであります。当日私が先生を御紹介致すはずであったのを、病気のため出席出来ず、おいで頂いた先生に対してまことに申し訳ないことでありました。やむを得ず私は大意を認めて三松氏に託し、代読してもらいましたが、いまそれをここに記しておきます。
『鳥居博士は皆もすでに存じ上げている通り、日本における考古学の権威者として最も有名なお方であります。先生は昨年の春、南米ブラジルの招聘《しょうへい》により、御令息と一緒に彼の地へお出でになり、つい先だって研究を果たしてめでたく御帰朝になったのであります。さような専門的な学問と私ども小売商人とおよそ縁遠く、したがって先生に講演をお願いするなどということは御遠慮すべきでありましたかもしれませんが、あなた方のためにあえて先生を煩わすに至ったのはいささか因縁があるので、簡単にそれを申します。中村屋が初めて本郷に店を持って数年の間は、いわゆる創業時代でありまして、見るかげもない、まことにみすぼらしい三文店でありまして、むろん製品だってきわめて貧弱なものでありました。その頃鳥居先生は中村屋の近くにお住いで、私どもにはこういう微々たる時代に、今日ここに御出席下さいました奥様に始終御ひいきにして頂きまして、どんなに有難いことでありましたかしれません。そのうちに先生と奥様は前後して考古学研究のために蒙古の奥地においでになりました。また私どもは新宿に支店を設けて、毎朝本郷から新宿に通い、その後はさらに慌しい日を送るようになりましたので、一時先生にも御遠々しくなり、時々新聞や雑誌を通して、ますます研究の歩を進めておいでになる御様子を知り、主人とお噂申し上げて居りましたが、ついお伺いする機会もなくて居りました。ところが昨年南米ブラジルにおいでになることを新聞で知りまして、私はちょうど病床におりましたのですが、このたびこそはと起き上がり、主人を促して一緒に先生をお訪ねした次第でありました。本郷以来、春風秋雨幾十年は夢の間に過ぎ、鳥居先生は考古学の泰斗として外国にまでお名がひびき、ますます蘊蓄《うんちく》を深められつつあり、奥様もまた先生と同じ学問に志をたて
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