浅野さんよく言ってくれました、こういうことを行《や》らせた私たちこそ済まないのです』と言って後は言葉が出ず、三人は心の清々しさと嬉しさで胸がいっぱいになり、ともに涙に咽びました。浅野さんのこの時の清らかな懺悔は永久に天国の記録に残るでしょう。
その後こういう美しいものにめぐり合わないのは何となく淋しく感じます。店員の数が増加するに従い、昔のような家族的なあたたかみの内に団欒する機会が失われ、予期しなかった冷たい規則を用いて警戒しなければならないようになったことは、ほんとうに困ったことであります。
おまきさん
大正四、五年頃中村屋に務めていたおまきさんは、なかなかのしっかり者でした。
印度革命首領ラス・ビハリ・ボース氏に退去命令が下って、一時中村屋の一室に憂愁の幾月かを送らねばならなかったことは、主人や私の書いたものであなた方も知っているでしょう。当時おまきさんもこの事件につき、重大な任務を引き受けることを誓いました。普通の女ならば怖がって逃げ出すところを、おまきさんは大胆に沈着に自分の役割を果たしました。風俗習慣が違い、言葉の通じない外国人のボース氏を世話するのは容易なことではなかったし、秘密を守るためには肉親の者が死んだという知らせを受け取りながら、涙を隠してとうとう葬式にも行かなかったのです。私もまた行かせることが出来なかった。義のためには人はじつに辛いことがあるものだと、私もひそかに涙をしぼったことでした。でも店員一同はもちろん、女中までがあの潔い公憤をもって一身を顧みずボース氏の守護に努めたればこそ、ボース氏も生命を全うし、日本の面目も立ち、また私たちとしては頭山翁の信頼にいささか酬ゆることが出来たのです。あの時皆が私たちを助けてくれたことはじつにじつに今も肝に命じて忘れません。
この事件も一段落ついて間もなく、おまきさんは暇をとって家庭の人となり、横浜に住んでいましたが、大正十二年大震災の時危く焼死を免れ、再びもとの仕事に着手して復活の途上にある時訪ねて来て、無事な顔を見せてくれました。が、その後どうしたか消息が絶えてしまい、今もって安否が知れない。印度問題でボース氏の活躍を見るこの頃、しきりに彼女のことが思い出されてなりません。願わくはどこにありても健全なれと祈ります。
店葬のはじめ
留吉さんは鋳造の大家山本安曇氏の弟で、中年で入店し、販売部で働いていた。中年者はどこでも歓迎されるものでなく、当人としても中途からでは何をしても成功|覚束《おぼつか》ないと相場がきまっているが、留吉さんも初めのうちは小姑の多い中に来た嫁のように、何かにつけ気兼ねはあり、仕事に経験がなくてずいぶん骨が折れたようでした。しかし性質が非常に善良で真面目で、倦まず撓《たゆ》まず働くうちにだんだん仕事に馴れ、いよいよ熱を加えて来ると普通の人の三倍くらいの働きをして、とうとう古参の者を凌駕するに至りましたが、これはほんとうに異数のことでありました。
惜しいかなある夏ふとしたことから病みつき、僅か数日にして暑苦しい倉庫の片隅で、朋輩の看護のうちに淋しく死んで行きました。その頃はまだ寄宿舎もなく、病人のために何の設備も出来てなかったので、どんなに行きとどかぬことであったかと、今思い出しても胸が痛くなる。それでも本人は不平を言わず、かえって朋輩のやさしい心に感謝して逝きました。
私たちは故人の功績に報ゆるために、店葬として厚く弔いました。中村屋の店葬はこの人をもって嚆矢《こうし》とします。
精一郎のこと
精一郎は主人の甥で、福島高等商業を卒えて中村屋に実地修業に来ていました。主人の肉親というものはとかく僻《ひが》みをもって視られ易い傾向があるから、私は精一郎を褒めることは遠慮します。本人も常にこの事を心にかけて伯父である主人に告げ口でもしないかと他から思われるのを嫌がり、決して自分一人では私たちを訪ねることをしないばかりでなく、店で顔を合わしてもただ目礼して逃げるように行き過ぎたものです。
しかし私はあなた方に精一郎のことばかりはぜひ言い遺しておかねばならない。現在中村屋の帳簿は株式に組織を改めて以来、整然として秩序が立ち整理されていますが、昭和三年春、主人が欧州に渡行する頃は帳簿といってもまだ完全なものではなかった。
したがって主人の留守に私がその帳簿を見ても、内容をはっきり知ることが出来なかったのです。そこで精一郎を呼んでいろいろ質問してみると、倉庫と工場、販売と仕入れとの間に連絡もなければ明確な計算もなく、至って漠然たるものでした。それから精一郎と相談をして、主人の留守中に完全に整理し、帰朝の主人に一目瞭然の帳簿を呈して留守中の報告をしたい旨を希望して、尽力を頼みました。
精一郎は涙ぐまし
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