るいは一時の腰掛けに商店に来るのであって、最初から商売に志すものとは自ずからその性質を異にする。また長い間勉強で神経を使い、試験で精力を消耗している上、二十五、六歳までペンより重いものを持ったことがなく、他人の命令で働いた習慣のない青年たちである。店に入って急に店の規律に服し、毎日同じような煩雑な、しかも相当筋肉労働にも従事せねばならぬのであるから、馴れた者にはさほどでないこともなかなかの負担で、我慢に我慢をしてようやく一日を終ることとなる。これでは店員として成績の上がる見込はないのである。それゆえせっかく入店しても結局中途で退店するものが多く、私どももまことに遺憾に思うことである。
 これに反し、小学卒業生は年少活発で何をするにも興味があり、元気で愉快に働くので、比較的容易に仕事に関する知識を会得し、一、二年後には早くも一通り役に立つようになる。結局仕事の優劣の差は、勤労に対する覚悟の如何《いかん》と業務に対する熱意の深浅によるものとして、私はこの点から小学卒業者を採用し、年少のうちから養成することに決めたのである。実際世間の例に見ても、大工左官の如き手練を要する者は、ぜひともこの少年時代から修業に入るを必要とし、また碁、将棋の如きもこの年代から始めるのでなければ大家名人と成り難く、飛行士なども同様と聞くが、小売商として成功を納めている者や、実業界に名を成し、相当に成功している人々の中にも、小学校以上の学歴を持たぬものが甚だ多いのである。
 しかしそれら小学校出身者は特に優秀なる人々を別として、一般には小成に安んずる傾向があり、高等教育を受けた人々に比し、志が低いと見られるのはこの人々の欠点とせねばなるまい。少年店員諸君はここに留意し、反省自重して理想を高く持ち、各々大を成すように心がけてもらいたいものである。
 こうして中村屋はまず少年店員養成の一途に決したのであるが、これはあるいは商売には学問不要の宣言をなすもののように見られるかも知れぬが、そうではなく、絶対に中等学校以上の教養ある人々を入れないという立て前でないこともここに一言しておきたい。高等の学問を身につけてその上で真剣に商業に打ち込むという者があれば、それは我々も同感するところである。現に同業のうちにも帝大出身の虎屋主人黒川氏あり、出版界に傑出する岩波茂雄氏など、まことに他の追随を許さぬものがあり、新時代の商業の理想は大いに教養ある人々によって行われねばならないのである。したがって少年店員諸君も、商売の実地修業とともに、高尚な知識に対しても敏感に、絶えず自己の向上を計るべきは無論である。
 さて入店後の給与および待遇については、諸君のすでに経験するところであるが、一通り順を追うて記して見ると、入店後徴兵検査までの約六年間を少年級として、少年寄宿舎に入れ、衣類医療等いっさいを主人持ちとして、小遣いは初め月に十四、五円(給与いっさいにて)、漸次増して三十円以上となる。この六年間は月々給与の約三分の一を本人に渡し、他の三分の二を主人が代って貯蓄銀行に預けておく。
 二十二歳になれば少年寄宿舎を出て、青年寄宿舎に入る。同時に衣類は自弁することとなり、給与は四十四、五円から漸次七十円に至る。衣類を自弁するため、月々給与の約半額を本人に渡し、残り半分を主人が代って貯金しておく。賄《まかな》いはいうまでもなく店持ちである。青年級は二十七歳で終る。
 二十八歳からはそれぞれ妻帯を許し、寄宿舎を出て一家を構える。俸給は月々全部を渡し、主人はもう預からない。
 家持店員の給与は七十五円ないし二百円であるが、一家を構えてみると今までの寄宿舎生活と違い、すべてが複雑になって来て、それぞれの事情により生活の難易が岐《わか》れて来る。もちろん中村屋で少年期から青年期を実直に働き、無用の散財をしなかった者はこの時分には相当の貯金が出来ているから、それを持って退店し、新たに自分の仕事を始めることが最も望ましいのであるが、引きつづき中村屋で働きたいと望む者には、なるべくその希望に添うことを方針としている。
 自分はいろいろ経営の合理化を研究して、店員全体の生活を裕《ゆた》かにするようにと努めているが、これでよしと安心の出来るにはまだまだ前途遼遠である。だいたい私が諸君に対する待遇の根幹とするところを述べて見ると、
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一、店員はことごとく我らと一家族にして、また各々立派な紳士として、事業に参加するものであるから、我らはこれに対する感謝とともに、店主としてまた一家の家長として、常に一同の幸福増進を計るべきこと。
二、店員並びにその家族全体に生活の不安を与えてはならないこと。
三、店員中には夫婦共に働いて余裕の持てる家庭もあるが、子供が多く、また老人を抱えて倍
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