一つの欠点になっている場合が少なくないのであります。私の知って居ります某大学教授の夫人は、某会社の重役の娘に生れて、最高の教育を受けた人でありますのに、どういうものか女中等の食物のことを考えてやらないのであります。女中等は仕方がないので、主人夫婦の食い残したもので食事をしているという有様で、これなどもどうせ残るのだろうそれを食っておけばよいのだという考えなのか、何んとしても恥しい話ではありませんか、また相当の店や工場の店員や職人が「おかみさんがケチで食物がわるい」とこぼしているのも、よく聞くところでありまして、粗食の結果、成長期にある少年をして発育不良に陥らしめたり、病気をする者が多いなどという例も少なくないのであります。
 これでは如何に主人学を修業して完全たらんとしたところが何もならない、妻君が傍から破壊して行くのであります。また商売見習に来た小僧に子守のみさせたり、また我儘な子供の相手をさせるのもこれ等の妻君でありまして、子供もこれではいよいよ増長し、店員達を自分の家来のように思うて無理な事などいいつけるようになり、どちらに対してもよろしからぬ結果を来たすのであります。
 ゆえに、主人は部下を指導すると同時にその妻女を教育することが大切でありまして、夫婦同一線上に立って協力一致して当るのでなくては、多くの店員や職工等を完全に率いることは出来ないのであります。なんの妻君教育ぐらいと考えますが、実際においてこれはなかなか難しいことであります。かの英傑秀吉すら淀君の我儘を押えることが出来なかった結果、豊臣の天下を早く失ったとも言われて居ります。して見れば徳川十五代の基を築いた家康は妻女教育を完全に成し得たものと言えるかも知れません。ゆえに私は主人学の最高峰はむしろ妻女教育であると申してよろしかろうと考えるのであります。

     二代目の主人学

「売家と唐様で書く三代目」と川柳にもありますが、どうも二代目三代目は難しい。稀には初代の成功のあとを受けて、二代目で大いに発展する家もあるが、多くは二三代で没落する。何故成功者の子孫がそうなるか、二代目は駄目だといっても、その人を見ると決して馬鹿ではありません。むしろ時代が進んでいるだけ初代よりも聡明で、才もあり、一個の社会人としてはなかなか条件が揃っているのを見るのです。それにもかかわらず事業がうまく行かぬのは何故か、ここに大いに我々の考えねばならぬものがあります。
 まず初代は、幾多の困難に打ち勝って漸く一家を成したのですから、金銭に対してもその価値を知っていて、同じ使うにも使いどころをわきまえている。たとえ零細な金でも無駄な支出はしません。そうして日常つつしみ深くあるとともに、業務の方では使用人と一緒に働いて、苦楽を彼らとともにする。それゆえ使用人も主人に親しみ、敬愛し、よろこんで職務に精進するのであって、この両者の持合が崩れぬ限り、家運はますます盛んであります。
 ところが二代目三代目となるとそうは行かぬ。三代目はさておき、二代目にしても、これは初代の子で創業の時代に生れているとはいうものの、青少年期にはすでに家業も盛んになって、それにつれて生活も拡張されているから、家には女中あり下男ありで、不知不識に我儘を助長される。無論高等の教育を受け、またこの時代色であるところの旅行に、運動に、音楽に、芸術の理解も出来れば相当に享楽の道を心得て、知識も見聞もとうてい初代の及ぶところではありません。昔語りに親達の苦労のあとは聞くが、それかといって現在は現在で、衣食住は向上する。二代目としてはもう初代のような質素な生活は出来ないのであります。
 その結果として、初代の時は店の経費も生活費も多くを要せず、従って営業の方針も薄利勉強で進むことが出来て、ますます世の信用を博し営業も発展したのであるが、二代目三代目は諸経費の増大のため、従来の薄利主義を守ることが出来ない。漸次利鞘を大にして勉強の度を減ずるほかありませんから、店の信用は低下し、売上は漸減する。また初代主人と使用人との間には、多年苦楽をともにして、互いに離れられぬ親しみがあり、また階級的の差別を感じるほど生活程度も違っていぬから、使用人として不平も起らない。双方におもいやりがあって、感謝の気持で働くから能率も上がるが、二代目三代目となると主人はもう使用人とともに働くわけには行かぬ。ただただ指図をするか、あるいは顔出しをするくらいに止まることになって、しかも生活程度は甚しく懸隔を生じ、使用側は羨望と不満から自然と職務は怠り勝ちとなり、能率が低下する。
 大会社や大工場の重役等が労せずして高給を食むに反し、実際に中堅になって働く役員や職工はその十分の一程度の給与しか受けないために、不平を起して充分に働かぬと同様の結果となるのであります。二代目が初代に及ばないのは、ちょうど質素な生活に慣れた地方人は都会に出て成功するが、贅沢の味をおぼえた都会人は、知識においてははるかに勝りながらこの地方人に敵わない、これと同じ道理であります。
 それゆえ昔から数代続いて繁栄の少しも衰えぬ家というのは、よほど代々の遺訓に力強いものがあり、そういう家の家憲を見ると、必ずそこには質素を第一とし、固く奢侈を戒めてある。子孫がこの家憲を守る家は長く栄え、守らぬ家は破滅する。それゆえ主人は相当に成功した後も自ら質素倹約の範を示して、家風を奢侈に委ねぬよう努力を尽し、順境において成人する子孫に充分の活力を保たせてやらねばならぬのであって、これが出来ねば自分一代は成功しても、主人学を完成したものとは言えぬのであります。
 この点米国人はなかなか徹底していると見えて、父は世に聞えた富豪であっても、その子弟は自ら働いて得た収入で、力相応に生活する習慣があり、大統領が幾千万ドルの生活をしても、いったんその職を退けば、同時に質素な一平民の生活にかえる、その生活の伸縮自在なところ、また自力尊重の一面は大いに敬服に値すると思います。どうも我々日本人は気前がよいというか、一度大臣になった人は、野に下っても、生活だけはやっぱり大臣の生活をする。いったん大きくなったら容易にもとの簡易さに戻れない。そこに人知れぬ悲劇もあると言わねばなりません。
 三百余年繁栄して衰えぬ三井家の家憲というものを見ると、やはりなるほどとうなずかれるものがあります。誰方もよく御存知でありましょうが、私の心を惹いた条々を、おぼえのままに引いて見ますと(但しこれは現代語に直されてあり、原文そのままに味わうことは出来ないがだいたいの意味において)
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一、同族一門は情諠を収て和衷協調し、心を一つにして行かねばならぬ。同族が相争う時には家運は亡びる。一本の矢は折れ易いが、十本の矢を束ねる時は折れない、というこの教訓は、自分の家の掟に適っている。
一、節倹は家を富まし、奢侈は人を亡ぼす、節倹は子孫繁栄の基礎である。
一、家業に専心しなければならぬが、必要なる経費は積極的に出さねばならぬ。あまり勘定ばかりしていては大きな商売は出来ない。
一、他人を率いる者は、よく業務に通暁しなければならぬ。だから同族の子弟はまず丁稚小僧の仕事から見習わせて、漸次に店の業務を習熟するように教育せねばならぬ。
一、分限を越えてはならぬ。仏神を敬うのはよいが、これに凝って家業を怠り、寺などに多額の寄進をすることは慎しまねばならぬ。信仰は精神の問題であって、いたずらに物質的寄進をすることは別問題である(等々)
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 見るところこれは如何にも三井家始祖の遺訓らしくその慎みと誠実さ、またしっかりと大地に根を据えたような信念に頭の下るのをおぼえるが、よくこれを奉じて間違わなかった三井家代々の偉さも同時に思われるのであります。今は時代も難しくなり、当然二代目の悩みも深いわけで、親子ともになおさら戒心を要する次第であります。

    職長学七ヶ条

 私はせんだってある所で「主人学」という話をしました。その続きというわけでもないが、今は諸君に、主人学のお隣りの「職長学の修業」について話したいと思う。いま中村屋には職長級の人が十四五人いるが、いま年少な君達も、やがて職長となり、技師長となり、販売主任となるべきであって、職長学の修業は、常に心がけて、だんだん自分をその器につくり上げて行かなくてはならない。
 まず職長として第一に心得ねばならぬのは、部下の信頼を得ることです。その点は主人も同じだが、職長は主人よりいっそう骨が折れると思う。主人なればその関係は初めから決定的だが、職長は同じ雇われ人の中で上に立つから、とかく問題になり易い。しかし仕事の上から見れば職長は先生で、部下の若い者は誰もみな職長に教えられて、将来一人前として立てるだけの腕を磨かなくてはならないのだから、その意味では職長の方が主人よりも大切であるし、また朝夕を一緒に暮し、二六時中相語り相助け、よくてもわるくても責任をともにするのであるから、職長に向うてはしんみの父に対するような感じを持つのが自然だろうと思います。それゆえ部下の敬愛を受ける度においては、主人より主婦よりも職長の方が上かも知れない。
 ただしそれは職長が真に部下を愛して親切に指導する場合であって、職長にそれだけの自覚がなく、部下に技術を教えるのを惜しむようだとすると、誰も彼に従うことを喜ばない。たとえばパンの職長が醗酵素の種の作り方を秘密にする。菓子の職長が、材料の割り方や薬品の分量を教えない。それらはいわゆる秘伝にして自分が握っていて、部下にはいつも下働き的な仕事のみをさせておく、とすれば部下は不平を起すにきまっています。その結果は職場の能率が低下し、製品の出来栄えも落ちて、ついには職長が地位を失うことになる。まことに困ったことだが、世間にはそういう例が少なくない。しかし何故職長が秘伝を惜しむか、これには主人も大いに責任を負わねばなりません。
 それは何故かというと、職長が技術を残らず伝授して、部下がだいたいそれをのみこみ、ほぼ代理が出来るようになると、主人は高給を惜しんで職長を解雇し、給料の安い若い者に代らせるという例が世間に実に多いのです。職長もそんな目に遭っては大変だから、自分の地位を守るために部下に対しては内々気の毒に思いながらも、仕事の一部を秘密にして、後進の道を塞がざるを得ないのであって、考えて見るとこれも気の毒な話であります。諸君が将来そういう勝手な主人になってはならぬこと、これはもう言うまでもないが、職長となって部下を率いる場合にも、技術を教えしぶるようではならない。主人は職長の地位を保証して、懸念なく指導者としての働きをさせるようにし、職長は安心して親切に後進を導き、部下はその教え子として職長を敬愛し信頼して修業を積む、そうあってこそ互いにその職分に満足出来るのであります。
 しかし世間の職長の気風はよくないものがあって、部下から何かを教えるに際し、いちいち報酬を要求するものがある。また月末給料の入ったのにつけこみ、花札、将棋、麻雀などに誘うてこれを巻上げる。あるいは飲食店につれこんで、一緒に飲食して、その勘定を負担させる。部下はそれに対し泣寝入りでついて行かねばならないなどというのが珍しくないが、かような輩はどれほど技術が優秀でも職長たるの資格はありません。主人は即時にこれを解雇すべきであります。
 次に、職長は自分の担任する部内で、何か失態を生じて、主人あるいはお得意に詫びなければならない場合となった時は、たとえそれが部下の過失であっても、自分はその部の長であるから、責任を負うて、部下に代って陳謝すべきであります。職長の中にはこれの出来ない人があって、往々部下に全責任を負わせ、自分は知らぬ顔で済まそうとする。これが単にその男の小心から出ることもあるが、とにかく少しでも責任を回避するところがあっては、人の上に立って信頼を得ることは出来ない。まず職長の資格はないものと言わねばなりません。
 しかしまた、部下に人気があるから必ずよい
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