の主人としての修業は問題とされていないように見受けられますが、これは如何なるものでありましょうか。
 支那では、帝王学というものがありまして、帝王の位に上られる御方は、特別の修養を必要とされ、必ずこの帝王学を学ばれることになって居りました。
 我が日本におきましても、畏くも天皇の御位に登らせられる皇太子様は、同じく帝王学を修めさせられ、常に御徳を磨かせられると承ります。
 ところが世上一般においては、人の下に働くものの心得はよく教えられ、またその修養を怠らぬ人も少なくないのでありますが、人の上に立つものの心得を教えるということはきわめて稀で、多くはその必要を気づかずに、ただ資本さえあれば、誰でもすぐに主人になれる様に考えていると見られるものであります。しかもこの主人たるの修業はなかなか容易なことではありません。これをなおざりにしていては、人の上に立ち、人を率いて行くことは出来ないのでありまして、何を致すにも主人自らまず大いに学ばねばならぬのであります。
 総じて成功した工場や商店を見まするに、それらはほとんど例外なく、自然にこの主人学を体得した人々によって指導せられた結果であることを発見致します。ところがその子孫の代になりまして家運が衰え、ついに破産に陥る例が世には珍しくないのでありまして、これらはその子孫の多くが不肖にして、主人学を知らず、主人らしく行わずしてかえってその反対の事をした結果なのであります。早く言えば苦労知らずの我儘者が主人になったからであります。
 主人学の真髄は「部下の心を得ること」であります。昔北条早雲が、兵学者に書を講ぜしめて居りましたが「主将の要は部下の心を得るにあり」というところになりますと「それなれば我はもはや学ぶに及ばず」と言って、その講義を中止せしめたということであります。早雲は、伊豆の一角より身を起して、よく関八州を領有し、北条氏の基礎を築いた名将であります。
 工場主、商店主はもちろん、技師長、職長その他何によらず人の上に立つものは、皆々この早雲と同様に、部下の心を得るのでなくては、真の成功におぼつかないのであります。ではどうすれば部下の心を得られるかと申しますと、第一に、
「部下の働きに感謝すること」
 であります。工場でも商店でも多勢の人がよく働いてくれてこそ成立っているのであるという心持さえあれば自ずとその働きに対して感謝の念をおぼえ、従って部下を愛することになるのであります。するとまた部下の方でも喜んで働き、決して骨惜しみなどいうことはないものであります。
 これに反し、主人の方で、月給を払うから働くのだという頭でいるとすると、働くのは当然だ、いやまだまだ働きが足りない、もっともっと隙なく働くべきだとなって、部下の働きを相当に認めることが出来なくなるのであります。そうすれば部下も反抗心を起して、何だ雀の涙ほどの小遣いしか出さないでおいて、そんなに働いて堪るものかという気になって、自然横着をきめざるを得ないのであります。
 お互いにそんなふうになってしまったら大変で、どちらも自然に発露する感謝の念によって扶け合い、主人はどこまでも誠実に部下を率いて、はじめて仕事が順調に運ぶのであります。第二は、
「部下に対してあくまで公平であること」であります。
 多勢の者を使うのに分け隔てがあってはならない、誰に対しても公平でありたいとは、誰でも思うことでありますが、実際に当って見ると、これくらいむずかしいことはありません。早い話が自分の生んだ子供でさえ多勢あればこれを平等に愛するのは容易ではありません。長男はグヅでいかん、次男は反抗的で困り者だ、三男だけがよく言うことを聞き、才能もあるようだとなると、ついこの三男を偏愛する、というような実例はどこの家にもありがちであります。
 同じ血を分けた子供に対してさえそうなのですからまして多くの使用人の中には無愛嬌で触りのわるい者もあれば、働きの割に結果の上がらないような損な生れの者もあり、また如才なくてかゆいところへ手の届くような者もあります。虫のすく好かんということもあり、つい一方を重く用い、一方を疎かにする弊に陥りかねないのであります。ところが事実はどうかというと、無愛想でごつごつしているような人間の方が仕事に忠実であって、要領のよろしい才物は往々にして横着者であります。
 それゆえ、主人は根本的に人を見る明が必要であると共に、真に一視同仁でなくてはならないのであります。が、これがなかなか困難なことで、決して口で言うようにはまいりません。平常人事を行うに充分公平を期しているつもりでも、その結果は、どうかこうか公平に近いという程度に止まるのであります。
 それでまだ主人直き直きに行えば、まずまず大きな間違いはないとしましても、もしこれを番頭にまかせ、支配人まかせに致したら、人事の公平はたちまち破れ、大いに得意な者が出来るとともに、ひそかに面白からず思う者が出来てまいりまして、その結果、集団生活に最も大切な協力一致が失われるのであります。主人ですら完全を期し難いものが、番頭や支配人に行い易かろうはずはないのでありまして、そこには幾多の感情が混り、自ずと自分に都合のよろしい者を重用して然らざる者を疎外する結果となるのは致し方のないことであります。大きくは国家の上に見ましても、一国の君主にありて国民をことごとく一視同仁、平等に愛されるのが、降って大臣となりますと相当人格者であっても、自分を推挙し自分を支持してくれるところの一党一派を重用して、反対党を疎外せざるを得ないのであります。まずそういうわけでありまして、部下の進退任命の如き大切なる事は、主人たる者の役目として如何なる時にも自らこれに当らなくてはなりません。また支配人や番頭任せにしてならないばかりでなく世情に疎い妻女や伜等の感情や私見に左右されることのないよう、大いに警戒すべきであります。第三は、
「主人と部下との利害の一致」を必要とします。昨今のように、軍需品工業が大いに好況で、これ等の工場では相当大きな利益の上る時でも、一方にはまだまだ多くの失業者があって、働く人を安く雇うことが出来るために、部下の待遇を少しも改善せず、ますます主人のみ利益をあげて行く、というようなところがあるようですが、そういうやり方は決して部下を得るものではないのであります。我々菓子屋の方にもそれがありまして、日本菓子の職人というと、とうてい生活して行けそうもない薄給しか与えられない習慣になっております。もとより主人側の好都合でありますから、相当利益のある店でもこの昔からの習慣を改めないのでありまして、職人はそれではくらして行かれませんから、やむを得ず砂糖や玉子、また製品をひそかに持出したり、あるいは原料問屋から心付を強請したりするのであります。主人ももちろんこれは感づいていまして、それゆえなおさら高給ということを致しません。品物をぬかれるものとむしろはじめから見込んでおくのであります。これでは職人も悪いと思いながらも、ますます盗み出しの必要を感ずるということになります。無論かような対立的の態度でありますから、仕事の成績はよろしくなるはずはありません。
 この事情に関して少々手前味噌のようにも聞えますが、私が実地経験致しましたことを御参考に申上げます。私の所は最初パン屋でありましたので、今日でも中村パン店と呼ぶ方が少なくないのでありますが、パン一種の製造のみでは、夏は非常に忙しくなりますが、冬になるとひま過ぎて困りましたところより、何か冬売れるものをと物色しまして、日本菓子を併せて製造販売致そうと思い立ち、これを始めましたのが今より三十年前であります。さて菓子職人を雇入れて見ますと、以上申せし如き悪習慣がきわめて多いので何とか改良すべきだと考えまして、当時東京で第一流店主人に話して、職人の給金を増して、盗みぐせを止めさせるようにしてはと相談しましたところ、その主人の答には、彼等の盗みぐせは、菓子職人社会の何百年来の習慣であって、いまさらそういうことをしてみたところで改まるものではない。やはりその盗み分をおよそ見積って、それだけ給金を少なくするよりほかはありません、ということでありました。
 しかし私にはそんな無情なことは出来ませんので、給金を倍にしまして、なおまた子供のある者には子供手当、老人があれば養老手当を添える等心を配りました、なおまた特に忙しく利益の多かった時は、これを分配するように致しましたところ、彼等も生活の安定を得るとともに長年の習慣の悪しきを悟りまして、その物品の持出しのこと、またコンミッションを取るなどのことは全く根絶いたしまして、その上製造能率が非常に増加致しました。従来職人一日の製造高は十円ないし二十円で、平均して十四円見当でありましたのが、私の所では現在平均四十四五円になって居ります。すなわち三倍の成績をあげているのでありまして、待遇改善から自然にこの好成績がもたらされたのだと私は確信するのであります。
 今日大会社や官庁において、仕事の能率がすこぶる低く、だいたい一般民間のそれに比して、三分の一ぐらいの働きより出来ていないと申しますが、もしも上に立つ人々に部下を思うの真実があって、この辺の注意がよく行われましたならば、左様な状態に止まることはなかろうと思われるのであります。大会社等でいわゆる上に立つ人とは、単に大株主とか大財閥の関係者というだけで、幾つかの会社の重役を兼ね、自動車で乗り回しているだけで、毎月数千円もの収入がありましょうが、それに反し、真に力量ある活動力ある秀才が、僅々六七十円の俸給に甘んじていなくてはならぬのであります。妻子をも養い兼ねる有様では、不平不満、真剣な働きの出来ないのは、当然のことと言わねばなりません。先頃米国の視察を終えて帰朝されました藤原銀次郎氏の談にも、日本の会社は米国のそれ等の会社に比し三倍の人を使っていると語られて居りましたが、それなら米国人は日本人の三倍の能力があるかというと、決してそうではありません。カリフォルニヤに働く日本人の能率ははるかに米国人を凌ぐと申しますし、その他を見ても日本人は米国人より決して能率の劣る国民ではないのであります。要するに仕方さえよろしければ少なくとも今より三倍の能力を発揮し得る人々を、現在は指導よろしきを得ず、また根本の不満を除くことをせぬために、かく面白からぬ状態においているのでありまして、上に立つ人々の修業の不足は、実にかくの如く大きな不幸を、一般の社会に及ぼすものと考えらるるのであります。大きさにおいてこそ違え、一工場、一商店の主人も、その責任は同じことでありまして、私は事にふれて自己の修業の不足を思い、主人学の修業の必要をいよいよ痛感するのであります。主人自ら主人学の修業が出来て、はじめてそこで部下を善導し、有用の材に仕立てることが出来るのでありまして、主人は主人であると共に彼等の教育者、また親代りであることを忘れてはならないと思うのであります。
 以上でだいたい主人学の一般を尽したかと思いますが、最後になお一つ重要なる問題が残って居ります。それは妻君と協力の問題であります。我々個人の工場や商店にあっては、その妻君の地位は、多くは主人に匹敵し、稀には主人以上の主要な場合さえあります。今日の大三井の基を築いた人は初代の夫人であって、これはもう知らぬ人もありませんが、かの盛大な明電舎も、当主の母君の力でかの盛運を開かれたものであると聞きます。また味の素の鈴木氏の今日の隆盛の源にも、当主のお祖母様の力が大いに加わっていると申します。我々菓子屋の同業中に見ましても、銀座の木村屋の主婦、本郷三丁目岡野の主婦、本所寿徳庵のおばあさんなど、みな主人以上の店の繁栄に力あったものであります。婦人は勤勉で、細心で、注意深く、政治とか相場とかいう道楽もまずありませんから、賢明なる主婦は、往々にして主人以上の働きをする場合があるのであります。
 しかしながら、そういう賢明な婦人は別として、一般の婦人は天性つづまやかであるため、それが
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