年十一月
新宿進出の動機
私が早稲田大学(当時の東京専門学校)の、現在で言えば政治科を卒業して、初めて本郷帝大正門前に開業したのが、今から三十余年前のことである。その時分営業税なるものが出来たが、それは滅法に高い。ある日、私の留守中に税務官吏が来て、家内に売上高と店員数を訊ねた。当時の習慣として何処の店でも売上高と店員数との申し立てはだいたい半分であった。ところが家内は、売上高も店員数も正直に申し立ててしまったものだ。
果たして営業税は以前の二倍を課せられることになった。私は当時、手一杯な生活をしていたので、営業税を増しただけ欠損を生じ、そのままで行けば閉店せねばならぬ破目に陥ったのである。この間の消息は愚妻の自伝的随筆集『黙移』――本年六月出版――中に彼女が詳しく語っている。
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さてこんな風にお話してまいりますと、何だかお菓子屋の立志伝みたいになって変なのですが、決してこれは立志伝ではなく、今日中村屋の店頭がいささか賑しく見えますのも、またパン屋というには少し複雑な内容を持ち、扱う品々に個性というようなものが見えると言われるようになりましたのも、すべてどこをどう目指してとお話できるようなものではなく、ただ自ずと来り結ぶ機縁により、ただその縁に従うて力一杯の努力をいたしますうちに、不知不識ここに至ったものであります。
その機会というようなものは、いつも初めは一つの危機として来るか、あるいは一つの負担として現われました。開業明治三十四年、それから日露戦争の三十七八年までに、中村屋はまず順調に進んでおりました。どうせパン屋のことですから、華々しい発展は望まれませんが、静止の状態でいたことは一月もなく、売れ行きはいつも上向いておりました。それが小口商いのことですから、店頭の出入は目に立ち「あの店は売れるぞ」というふうに印象されたと見えまして、税務署の追求が止まずある時署員が主人の留守に調べに来ました。私はそれに対してありのままに答えました。箱車二台、従業員は主人を加えて五人、そして売上げです。この売上高が問題で、それによると税務署の査定通り税金を払ったのでは、小店は立ちいかないのでした。
それでどこの店でもたいてい売上高を実際より下げて届け、税務署はその届出の額に何ほどかの推定を加えて、税額を定めるのでありました。私にはどうしてもその下げていうことが出来ず、ありのままを言ってしまったのでしたから、当時の中村屋の店としては、分不相応な税金を納めねばならないことになりました。これは何と申しましても私の一生の大失敗であると、いまでも主人の前に頭が上がらないのであります。
よく売れるといっても知れたもので、一日の売上げ小売が十円に達した日には、西洋料理と称して店員に一皿八銭のフライを祝ってやる定めにしていたことによっても、およそその様子は解って頂けると思います。たださえ戦後は税金が上がりますのに、こんなことでは中村屋は立ち行くはずもなく、私のあやまちと申しますか、ともかく自分故こんなことになったと思い、一倍苦しゅう[#「苦しゅう」は底本では「苦しう」]ございました。
「仕方がない、言ってしまったことは取返せません、この上はもっと売上げを増すより道はない。一つ何とか工夫しましょう」
これは[#「 これは」は底本では「これは」]その時、期せずして私ども両人の考えでした。しかしこちらでそう思いましたからと言って、急にそれだけ多く買いに来て下さるものではありませんし、売るには売るだけの道をつけなければなりません。それにはどうしてもどこか有望な場所に支店を持つよりほかはないのでした。大学正門前のパン屋としては、私どもはもう出来るだけの発展をしていました。場所柄お客様はほとんど学生ですし、大学、一高の先生方といっても、パンでは日に何ほども買って下されるものではないと言って高級な品を造ってみたところで、銀座や日本橋――当時京橋、日本橋付近が商業の中心地でした――の客が本郷森川町に見えるものではなし、ここでは、たとえ税金の問題が起らなくしても、私共の力がこの店以上に伸びてくれば、早晩よりよき場所の移転の説が起らずにはいないところでありました。
救世軍の番頭さん
支店を設けるにしても、移転するにしても、これはなかなか冒険です。見込み違いをした日には現在以上の苦境に立たされることになりますと、その頃ある地方の呉服屋の次男で、救世軍に入ったがために家を勘当された人がありまして、日曜だけは救世軍として行軍することを条件として、店員の一人に加わっておりましたが、まずこの人を郊外の将来有望と思われる方面へ行商に出して見ることに致しました。
その頃大久保の新開地に水野葉舟、吉江孤雁、国木田独歩――間もなく茅ヶ崎南湖院に入院――戸川秋骨先生、それに島崎先生は三人のお子を失われてから新片町へ移転されましたが、ともかく、そういう方々のよりあいで一時文士村と称されたものでありまして、また淀橋の櫟林の聖者としてお名のひびいた内村鑑三先生、その隣りのレバノン教会牧師福田錠治氏などが、その行商最初の得意となって御後援下されて、この文士村の知名の方々へも御用聞きに伺いまして、それぞれ御引立てに預かるようになりました。初めは一週に一度ずつ回ることにしておりました。するとこの救世軍の人が実によく出来た人で、頭のてっぺんから足の先まで忠実に満ち溢れている、というような、また時間を最も正確に守り、お約束の時間には必ず配達してお間に合わせるので、本郷中村屋のパンの評判が上がり従ってお得意も日に日に増え、一週に二度になり、おやつ頃にはよそからお買いにならずに待っていて下さるようになりました。
それがだんだんと広がり、千駄ヶ谷方面、代々木、柏木、と、もうとうていまわり切れないほど広範囲にお得意を持つようになった、すると今度はお得意様の方から「どうだ一つこちらへ支店を出しては」というお心入れで、私はそれをききました時は、有難さに泣き、ああもったいないと思いました。その番頭はお得意のお引立てにいっそう力を得まして、支店候補を予め見て来たといって「千駄ヶ谷付近が最も有望です」という報告でした。
しかしその時私は四度目のお産の後、肥立が思わしくなく、床につき勝ちでしたところへ、僅か半年でそのみどり児を失い、その悲しみや内外の心労と疲れから全く絶望の状態に陥っておりまして、気力もなく昏々と眠りついて居りました。その中で、はっと気がつき「これではいけない」と起き上がりました。「店の人達があんなに働いて開拓していてくれるのに、これは早く見に行かなくては」と思うと、もう一時もじっとしていられなくなり、起きると早速支度して、主人とその人と三人で支店を出す場所を探しに出かけました。
まず最初に千駄ヶ谷方面から伴れ立ってまわりましたが、千駄ヶ谷は当時すでに開けていまして将来発展はしそうですが、私の方の店としては不適当でした。方々歩き、新宿の只今店の在る辺りにまいりますと、それは場末の如何にも佗びしい町でしたが、いますぐそこにどれだけの商いがあるか、それは疑問であるとしても、四谷の方からつづいて来ている地形といい、更に郊外へ伸びて出る関門に当っていますので、やがてはと直覚されるものがありました(以下略)
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その頃の新宿、角筈方面は辺僻な田舎であったが、私は断然決意してそこに店を開くことにした。そして本郷の方はその後店の功労者に譲ってしまった。爾来三十年間、今日に及んでいる。かくして当時の田舎だった新宿は、今や山の手の銀座といわれる程の発展を遂げている。禍い転じて福となる。というか、いささか今昔の感が深い。
新宿家相
店舗の適、不適が営業の盛衰に重大な関係を持つことは、何もいまさら私の発見ではありませんが、何がその規準であるかという点について、明答を与えた人は少ないようです。
照明がどう、ショー・ウィンドーは如何、売り場の作り方、ケースの高さ等々の点については研究している人々が多いが、店舗全体の品格とか、顧客の数とその店の広さなどについては、寡聞にして私はまだその数を聞かない。世間にはよくある例ですが、客が混み合ってきわめて手狭を感じ、当然拡張されてよいと思われる繁昌店が、一挙に三四倍に拡張してたちまち顧客を失い、まことに入り易く、親しみ深く感じられた日本家屋の菓子店が、入口の狭い洋風の店に改造して売上げを半減したなど、あるいは道路面から少しく爪下りぐらいの店が、客が入り易く、かつ商店が賑やかに見えて宜しいにかかわらず、改造に際して地下室をつくる必要上、道路より、一二尺も高くしたために売上げを激減したなどのことがあります。
この点につき、私は中村屋の経験に徴し、いささか意見を述べて見ましょう。
新宿に開店当時の中村屋は、間口五間、奥行二間半計十二坪の広さであり、売上げ一日平均七十円内外、一坪当り約六円でした。
当時この店は、売上げに比して、少々広過ぎるくらいでしたが、その後売上げ漸次増加して、一日三百円に達した時は、甚だ手狭を感じました。そこで奥行を三間半に拡張し、その後いよいよ繁昌が加わり、これでは無理だと思われるにつれて半間、あるいは一間と取り拡げ、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪から五十坪にまで漸次大きくして来ました。ある時は改造後、僅か六ヶ月で、更に改造の必要に迫られたことなどもあって、友人等は私の改造のあまりにも姑息であってかえって失費の多いことを指摘し、一挙に大拡張をしてはと忠告してくれたというような状態であったのです。
しかし私は、来店される客の増加に応じて徐々に拡張し、店内は常に相応の賑いを失わぬようにすべきであるという見地から、建築費の節減を計らんがために一挙に大拡張をして、店内が急に淋しみを感ずるようでは、決して策を得たものではないという考えを捨てなかったのです。そうしてそれは決して間違いではありませんでした。
商売上手といわれ、また店舗として自他ともに許したものが、あまりに調子に乗り過ぎて、先の先まで見通したつもりの拡張や改築がかえって失敗の原因となった例は、いずれの周囲にもあまりに多数に見られるのです。大阪の灘萬などもその最適例です。また繩のれんの一杯茶屋であるとか、八百屋などの雑然たる繁昌店が堂々たる店舗に改造して、急に客足を減ずるなど、みな店相応の格を忘れての失敗といわねばならない。総じて人に人格ある如く、店には店の格というものがあって、その店の格相応の構造を必要とし、必要以上のものは破壊の因をなす。考えねばならないことだと思います。宮内省御用の虎屋なればこそ、あの堂々たる城廓のような建築でも商売繁昌するのであって、もしあれを一般の菓子店が真似たならば恐らくお客は寄りつけまいと思います。
主人学の修業
私は菓子屋でありますから、菓子の製造販売等につきましては、少しは経験致して居りますが、今日このお集りはそれとは全く違いまして、工場経営をなされる皆様方に対し、何をお話致せば宜しいか、到底その資格はございませんので、実は固く辞退したのでありますが、何でもよいから話せとのたってのお望みでありましたので、伺いましたような次第であります。まず私自身に痛感して居りますところの主人学の修業ということについてお聞きをねがうことに致そうと存じます。
私の所の菓子職人に致しましても、一人前の腕前になるのには少なくとも十年の修業を要します。足袋職なども七年位は苦労せねばならぬと聞いて居ります。また少しく高級なところで見ましても、彼の外国航路の船の船長となるには、商船学校を卒業して更に十年くらい実地の練習を必要と致します。何でも一つの事をなすには、皆かようにそれ相当の修業を要しますのに、ひとり商店の主人となる修業というものだけは聞かないのであります。工場主においても店主の場合と似て居りまして、専門の知識を必要とすることは別でありましょうが、単に一工場
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