常に気ぜわしく登るものである。
○道路より地盤の高い店ははいりにくい感じがある。これに反して少しく道路より低き所の地盤が最もよろしい。これは低地が繁昌すると同じ心理的の関係である。従って床もなるべく低きがよろしい。床が低ければ店にならべた品物が沢山で賑かに見える。床の低い繁昌した店で、堂々たる床高い家に改築したために急に衰微した例は沢山ある。
三、営業の種類と客筋
次に注意すべきは、開店せんとするに先立ち、まず如何なる客筋にむかって商売すべきか、予め方針を定めねばならぬ。日本全国もしくは東京全部を相手に卸問屋でも始めるとならば、日本橋を随一として京橋これにつぎ、職工その他日雇人等の労働者を当ての商店ならば、すなわち深川本所区等の労働者の住む所か、あるいはこの種の人々の出入する工場の付近を選まねばならぬ。学生官吏を目的ならば、本郷台を初めとし、神田牛込の一部、兵営内の需用に応ぜんとならば赤坂麻布の一部、外国公使館領事館その他の最上流社会ならば、赤坂芝の一部を選ぶという如く、その客筋と営業の種類とは大いに関係あるものである。
さらに今一つ注意すべきことは、その開店せんとする場所の近傍を得意とするつもりならば、新来住者の多い地を選ぶが得策である。日本橋区の如く、区内の多数人士がことごとく多年その土地の住者で、すなわち生粋の江戸人の住んでいる所は、いわゆる老舗のみが信用あって、新店は信用が少ない。しかし本郷牛込等の如く新移住者多き地方か、神田の如く学生等の多い所では勉強さえすればたちまち繁昌するものである。その実例は神田で最も繁昌する某薬店[#「某薬店」は底本では「其薬店」]は、十年前日本橋区内に開店して三年間大勉強して売出したが、少しも得意はつかない。そのためやむを得ず神田に移転して前にも劣らぬ勉強をしたところがたちまちにして大評判となり、繁栄を来したとのことである。
四、商店と日受
日光は生物を生長せしむるには必要欠くべからざるものなれども、これが商店の上にテラテラ夕日朝日の直射を浴びる時は、品物は少なからず損害を蒙るものである。しかし全く朝日夕日の当らぬ店といえばずいぶん難しい注文ではあるが、新たに店を開かんとする人はよほどこの辺の注意を要する。日光の直射を受ける店ならば、場所は如何に理想的であっても、店が如何に立派であっても、その商売の種類によっては断然思い止まらねばならぬ。例えば玉子屋、果物屋、八百屋、菓子屋、小間物店等の店は、烈しい夕日を受けるために損害ことに甚しく、とうてい夕日を受けない店と競争すること能わざるゆえ、早晩移転する外はない。ひとり蒲団屋だけは夕日を受ける方が得策である。されど概して如何なる商店にも夕日を受けぬ方が利益多きゆえ、同じ町内でも夕日を受けぬ側の方が地代家賃も高いことである。
五、建築の注意
銀座等の如き路幅広き町に、二間や三間間口の小規模の店は、もはや商店として仲間入りは至難のこととなった。ゆえに近来しきりに市区改正せられて、道路の大いに広まるとともに、建築を壮大に改め、人々の注意を引かんとする傾きが著しい。かくの如く互いに壮麗高大を競う今日となっては、勢い西洋風の大建築に改めなければならぬ。普通の日本風の二階建は低くして見すぼらしいから、遠からず三層四層の壮観を仰ぐに至るは明らかである。欧米の大建築もたぶんこれと同じ理由から来たものではないか、とすれば今日より十年後には日本橋の大通りなども、欧米の市街に劣らない美観を呈するに至るは想像するに難からざることである。それゆえ今において新たに開店せんとする人は、路幅と比隣の有様を見、将来の発達を期して路幅の広い街に狭い間口の家を求めたり、あるいは低き新建築などを営んではならないのである。
六、間口と資本の関係
資本はその商売の種類と奥行の深浅によって一様に定め難いものであるが、おおむね間口の広狭に従って、資本の多寡を定むるも差支えはないであろう。例えば二間の店ならば二二、四百円、三間ならば三三、九百円、四間ならば四四、千六百円以上くらいと見積れば甚しい誤りはない。もっとも商品の種類によって宝玉の如く嵩《かさ》すくなくして価値のあるもの、あるいは嵩ばりて金目の少なきものもあるが、間口の広い割に資本をかけなければ商品がまばらで、ただ一通りバラリと配列されるのみでは店が薄っぺらで、貧相で、品物も古くさく思われ、せっかく店に立寄っても品物を買う気になれぬものである。これに反して、間口狭く奥行深き店にたっぷり資本をおろして、商品を裕かに所せまきまでこれを陳列し、一見ごたごた然としておけば、店は何となく活き活きとして、品物も新しそうに見え、甚だ心地よいものである。
七、古株の価値
世人はとかく他人の古店を譲り受けるよりは、新しく店を開いて、屋号も自分の郷里(世人には何の興味もない)の名に因んでつけ、商品も自分の独断で売れそうに思うものを大いに販売して他店の鼻をあかしてやらんとする傾きがあるが、ここがすなわち素人の初《う》ぶなところで、特に田舎出の人々の陥り易いところである。一商店を他人に譲り渡すには幾分の欠点は必ずあるだろうが、何町の何屋として何々の販売をしていることを、その近傍数百千戸の人に知られていることは非常な価値のある事にて、これがために毎日相応の売上げ高を得るものである。新たに開店してこれほどの地位に達するまでには莫大の広告料と長年月を要するものである。特にその近傍における得意の嗜好とその購買力の程度という、実に尊き知識をも同時に譲り受けることであるから、その利はちょっと予算し難きほど大なるものである。東京の客は地方の客と異なり、店主の顔を記憶せずして専らその店と家号を記憶するゆえに、主人は幾度交迭しても、その家の改まらざる限り、得意はあまり離れぬものである。自分の如きも今のパン店中村屋を譲り受けてから五ヶ年なれども、なお得意の大多数は自分が代がわりの中村屋たることを知らない。ここに一奇談あり、我が店の近隣に、本郷区にても屈指の下宿屋がある。かつて先代中村屋店主と口論したことがあったので、爾来中村屋からは何物も買うまいと決心したものの如く、自分が代がわりとなりし後たびたび辞を低うして用向きに伺ったが、ついに一回の用命もなくはるばる十町も隔っているパン屋からパンを求めているとの事である。しかるにこの遠方のパン店こそ彼がかつて口論せし先代中村屋が再び開業せしものであった。かような奇談もあるくらい、屋号ばかりは記憶されているのであるゆえ、東京市中十万の商店中毎年代がわりするもの少なくとも一万戸を下らずといえども、世人の多くはその代がわりの多きを知らず、年々歳々、各商店の繁栄を加うるものと信じて、同一の商店より買物をなしつつあるのである。かく屋号は大切なものであるから、なるべく旧屋号を踏襲して得意を散逸せしめず、充分商業の呼吸を呑み込んだ上で、徐々改正を施すのが最上の策である。しかしながらこの誤りに陥るのはひとり地方人士のみではない。東京の真ん中に住んでいる官吏諸君もこの価値を認めないものと見え、市区改正に際し、人民に立ち退きを命ずる時、家屋所有者には充分の賠償をなせども、家屋所有者以上の損害を蒙るべき営業人すなわち造作の持主に対しては、ほとんど償う所なく、ただ僅かに二三十円の立ち退き料を給するのみである。実に当局者の無知なために、如何に良民が苦しめられているか、少しく調査を願いたいものである。
八、地方人と東京人との嗜好の相違
ここに田舎の富豪があって、最愛の娘のために最上の嫁入り支度を調達せんとして、数千円の金を擲《なげう》って、田舎ではとうてい東京の中等呉服店にあるほどの品物もなかなか得られないのである。洋物、小間物、飲食物器具等またしかり、これに反して田舎に売れ行く粗末な品物を、東京において求めても容易に見当らぬであろう。これは東京人と田舎人との趣味嗜好の相違するゆえんである。ゆえにもし地方人の歓迎を受けんとするものは、品質粗悪でも価さえ廉であるならば、のんきな田舎人はわらじがけで買いに来る。しかし東京においては全くこれと正反対であって、価安きもの必ずしも売行きのよいものではない。むしろあまり廉に過ぎれば、却って得意に不安の心を抱かしめ、その品物につき多少の疑いをはさませる場合がある。それゆえ東京人の喝采を博するには、ぜひ品質の精良なるを選び、原料をも精選せねばならぬ。しかも彼らの嗜好に適しさえすれば、価高きには驚かない。借金を質に置いても買わずにはいない。見よ有名なる商店はいずれもこの方針によらないものはないのに心づくであろう。我ら開店せんとした時に、郷里の一名物を持って来て、大いにこれを広告的に廉価に売り捌こうと思った。それで自ら産地に赴き、またその製造所なども実見して製造家と特約を結び、意気揚々満腔の希望を抱き、天晴れ実業家に成りすましたつもりで東京に出て来た。しかし噫呼これも書生上りの空想に過ぎなかったのである。我得意たらんとする人は東京人であったことを忘れて居ったのである。我が郷里の人こそ名物として珍重するが、都人士の口はすでに一と昔も否もっと以前から舶来品の最上等を味わっていた。原価を切って馬鹿に安売りしても、都人士は一瞥も与えない。営業を経験せし後、初めて東京人の嗜好如何に考えの及ばなかったことに気づいたのである。これひとり我々ばかりではない。一地方の特産を持つ人は誰しも初めはこの考えを持つらしい。また今日現に各国の産物が、その地方よりわざわざ支店を出して盛んに広告をしては販売に骨を折っている。東京人も一時珍しい内は買って見る。しかしながら一通り人の口に行き渡ってしまえば、味わいが美(都会人の口に)でないので、たちまち東京人に飽かれて、終にはその産物の製造せらるる国の人が僅かに国産のゆえをもって使い物に用いるに止まるのである。その地方の人々が如何に賞翫しても、贅沢な都人士の口には合わないのである。もし幸い幾分都人士の嗜好に適ったものとしても、その国産物だけ売ったばかりでは、とうてい一軒の店を維持することは難しい。店の維持に莫大の費用を要するゆえに、販路のせまい一地方の産物ぐらいを売ったばかりでは、つまりかかり負けするのである。ゆえにある産物を今日なおつづいて売っている店はたいがい東京人の間に売行きの好いほかの品も共に販売して、ようやく命をつなぐという有様である。もしこの産物だけを売るならば、十中八九までは必ず失敗するであろう。当店でも各地の産物を売って見たが、ことごとく永続きはしなかった。初め少しく売行きのよいのに調子づいてどしどし多量に仕入れる時は、必ず後で荷の背負込みとなり、始末がつかない。長月日を経るうちに品が古くなって、売物にはならぬ廃物となり、非常に損をしたことがしばしばあった。その響には問屋の方でもいつか閉店して影を止めず消え失せている。今や実業熱その極度に達し、地方人の都下に来って商業を試みんとする人日増しに多くあるが、軽率に一地方の産物などを販売せんと、果敢ない望みを抱く時は、意外の危険に遭遇することがあるから、充分慎重な態度を取り、しかる後実行せられんことを希望するのである。
田舎人の多く着手する
商業の種類及びその真理
一、下宿屋
昔は素人下宿屋とて数人の学生を下宿せしめても、僅かの家族の食費ぐらいは儲かった時代もあったが、地代家賃その他すべての物価は年々騰貴して十数年前に比して約二倍するに至った。こうして一般に生活の程度も高くなり、質朴を旨とすべき学生も、電話もあり、電燈、瓦斯設備の完全せるいわゆる高等下宿屋なるものを好むようになって、古びた小規模な下宿屋などは、自然立ち行かなくなった。しかるに地方人は単に下宿料を如何ほどとして幾人おき、それで家賃を払っても差引何ほどの利益があると、きわめて大ザッパな計算を立て、軽々しくこの下宿屋を始める。しかしながら彼ら地方人の人は、田舎にいて自分で作っ
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