でありましょう。
とにかく、蜂の巣建築の結果が、公園の必要を生じ、喫茶店の繁昌となり、それから長く椅子を占領されたり、音楽を聞かせたりするので、喫茶店はその代をコーヒーその他飲食物に加算するので、前に話したように高価になるのであります。
こういう事情でありますので、単に街が立派であるのを見て驚いたり、コーヒー店の立派なのを見て感心したり、また公園をむやみに讃美したりして、ただ日本は非常に劣って居る、後れて居ると言って悲観するにはあたらないと思います。
船上での奇談
彼方へ行くに日本服では外聞が悪いとか、馬鹿にされるとか、種々の説がありましたが、私は考えました。私が郷里の信州に居た子供の頃でありました。ある時二人の若き米国婦人が村へ来ましたが、その人等は日本語も知らず日本服も着ずにはるばる信州までやって来て、山登りなどをして帰って行ったのを見て、大いに感心したのでありました。さて今度私が外国へ行く場合となって考えたのは、外国人は自分の国の着物を着て日本に来たのにかかわらず、日本人は向うの真似をして洋服を着て行く、しかも日本人のように小さな体のものが洋服を着た時の姿は甚だ貧弱で具合が悪い、それが常に身につけている日本服なら、羽織袴でもつけると多少がっしり[#「がっしり」に傍点]として大きくも見える。そこで私は「やはり日本人は日本服にかぎる」と決心して、日本服で出かけたのでありました。
最初は船でした。日本人は五十三人も居られましたが、皆洋服で日本服は私一人、それで私はいっさい日本語のみを使い、朝などは西洋人であろうが、支那人であろうが、かまわずに「おはようおはよう」と挨拶したところ、初め不思議がって居たその人々だんだん慣れて来て向うから「オハヨー」とやるようになったので、同船の日本人は非常に嬉しがり、また永年船に乗って居るボーイ等の喜び方は特別でした。
そのうち、熱帯のシンガポール辺に来た時には、日本人の船客中にも「やはり暑い時には日本服にかぎりますなあ」など云って、トランクの中から和服を出して着るようになった。
そうすると外国婦人なども羽織のようなものや、中には職人の着るハッピのようなものを着出して、しまいに船の上は日本服万歳となりました。
それで船の上が日本服と日本語が盛んになって、日本人が元気になり、船中の空気が陽気になりました。初めは外国人のみが我物顔に振舞って、日本人が片隅に小さくなって居たのがだんだん活発になり、運動に、水泳に、内外人間に少しの隔りもなくなり、和気靄々[#「靄々」はママ]として国際的の空気を出して来たことは全く日本服の賜でありました。
船がイタリアのナポリ(ネープルス)に着いた時、独逸のハイデルベルヒに留学中であった長男と娘が出迎えてくれましたので、早速娘にも裾模様の着物をきせて歩かせました。
その後パリのオペラにも日本服で行きましたが、彼の地の貴婦人等はダイヤモンドの飾りのついた高価な服などを着て居りましたが、その美人連も裾模様の日本服の前に顔色なしでかわるがわる来て、奇麗だ、美しいと云って褒めました。
外国の家庭を訪問する時など特に日本服が喜ばれました。ハンガリーに行った時の如きは、同国人が東洋人種である関係から、非常に日本服を愛好して居りますが、私等が日本服を着て行ったお陰で、彼方此方からお夕食の招待を受けて、ことわるのに閉口したくらいで、やむを得ず二三個所に招かれて行きましたが、日本服がとても歓迎されました。
デンマーク[#「デンマーク」は底本では「デーマーク」]の農家を訪問した時などは、案内役の外人が「不便でも日本服で行って下さい」と娘にたのんだほどで、至るところ好感をもって迎えられたのは愉快でした。
便利な日本服
日本服のいいことは、羽織袴や裾模様の着物が第一礼装として、立派に公式の席に用いられることであります。洋服であっては、夕食に招かれる時、ダンスをする時、オペラを見に行く時といった具合に、四種ほどの礼服を用意する必要がありますが、日本服ならどこにでも通用します。
現にこんな話があります。先年スエーデンで、ノーベル賞の授与式があった時のことです。日本の公使館の人々も招ばれたのでしたが、燕尾服を着て行かなかったがため、ついに参列することが出来なかったが、同行した桂井氏と云う学生は日本服で出かけたので、その人だけが日本を代表して授与式に参列することが出来たとのことでした。
私は幸い日本服で行ったので、不恰好な燕尾服やシルクハットの難をのがれ、しかも日本の大使館や外国の大学総長等の招待にも大威張りで出席し、先方の人達から歓迎されました。
働くには洋服がよい
働く人とか学生等には洋服は便利であるからおすすめしますが、外国に行く日本人が恥かしいと云って、自国の服装を卑下するのは大変な心得違いだと思います。
これはちょっと人様の悪口を云うようですが、以前井上という代議士の主催で、南洋貿易視察のために、オランダ領の南洋に行く団体を募集したことがありました。その時、私も妻も共に参加申込みましたのですが、「オランダ領地へ行くのだから洋服にしてくれ」との事だったので「外国から日本に商業視察に来る人は、皆日本服を着て来ますか」ときいてみたところ「そんな理屈は云わないで洋服にして下さい」とのことでありましたので、私どもはついに参加を断りました。家内などは西洋人にくらべると体は小さいし恰好は悪い、日本の絹の着物でも着ていったらどうやら西洋人にひけ[#「ひけ」に傍点]もとらないと思いますが、不恰好な洋服を着て、慣れない靴をはいて、ヨチヨチ歩いたらそれこそ国辱になるじゃないか、と考えたからでありました。代議士ほどの方でもこんな間違った考えを持って居られる方のあるのを残念に思いました。
とにかく、ただ見物に行くとか、招待された時などは日本服が好都合で、履物はコルク裏の草履を用いましたが、半靴を用いてもよいかと思います。
商人は一国の主人同様
最後に申し述べたいのは彼の国における商人の地位についてであります。
日本では昔から士農工商といって商人を最も低き階級として社会的に軽視する傾きがあるので、温泉場などへ遊びに行った際など、何々商と記さずにかえって無職などと記すのを見るくらいで、また立派な商人も資産が出来るとたちまち今までの商業を捨てて無職の資産家となって隠れることなどは実に国家のためにも憂うべきことであります。
西洋では商人は非常に尊敬され、イギリス[#「イギリス」は底本では「イぎリス」]においてはマーチャント・プリンス(商売王)という言葉があるほどで、社会的に重んぜられていることは驚くのほかありません。英国は商をもって立つ国で、その大海軍も商権保護のために造られ、またかの世界大戦も商権をおびやかさんとする独逸を圧するがためでありました。
商人は一国の主人同様にて大臣の如きはその番頭の如く見られるほどで、これはひとりイギリス[#「イギリス」は底本では「イぎリス」]のみに限ったことでなく、ドイツ等においても同様で、私の如き者も商人であるがために至るところにおいて意外の厚遇に接し恐縮したことがたびたびありました。
日本の貿易商である中村祥太郎氏の如きは、我が国の貿易に貢献少なからざる方で、欧州においては非常に尊敬され、かつてロシア皇帝、フランス大統領、ベルギー皇帝より各々勲章を受領したほどであるのに、本国の日本からは何らの賞をも授けられていないのであります。
西洋と日本とは商人を遇するのにかくの如き相違があります。西洋では尊敬されるがゆえに人材は多く商業に集り、今日の如き富強を致したものと思われます。
しかるに日本では「この子は学問が不出来で、末の見込がありませんから商業でもさせたいと思います」という言葉を、私なども小店員の採用に際してたびたび聞きましたが、何とも残念に思っております。こんな具合ですから一般に、商人に人材が少なく、人材識見のすべてが他に劣って居る有様で、ますますその地位を低めて居ることを、認めざるを得ない事を遺憾に思います。
今後我々商人は大いに自重し、商人は一国の主人であると云われるように、その地位の向上をはかると同時に、眼を世界の商業に向けて、外国におくれをとらぬようにすることが、自他のため、また国家のためであると思います。
小売店経営の実際
明治三十四年、書生上がりの我ら夫婦、本郷帝国大学正門前にパン屋開業、書生パン屋の名四方に広まるにつけ、地方より出て東京にて商売を営まんとする人の相談や問い合せが殺到し、一々返答を認めるの煩に堪えず。すなわち夫婦共著にて「田舎人の見たる東京の商業」を出版し、回答代りに贈呈したものであって、今や手元に一冊を止むるのみ、もとより数十年前の旧著なれども、我らの観る処今日においても甚しき径庭なく、小売店経営の参考には最も適切なりと信ずるとともに、鶏肋自ら棄てがたきものあるをもって採録することにした。
序
本書は決して金持になる秘決を説いたものではない。また我々は田舎出のしかも書生なりであって、いまだ研究の浅きものであるから、東京の実業界の真相を穿ったものだということも出来ない。ただ自ら実験してこの目に触れた所の範囲内においていささか心付いたことを書いただけのことである、ゆえにきわめて眼界の狭いものであることをあらかじめ御断りしなければならない。要するに良心に恥じず、独立独行誰の干渉をも受けずして、ただ自らの手足を働かせ、額に汗してもって得た所のいわゆる労働に対する相当の報酬に由って自ら生活して行くだけの順序方法を書いたものに過ぎない。吾人は損することを誇りとするものではないが、金を貯えることをもって唯一の理想とすべきものとは信じない。たとい多大の財産を有する者でも、一つの為す事なく、うかうかとこの世を渡るべきものでないことを主張するに過ぎないのである。
田舎人が東京へ来て失敗する理由
一、普通の商家の内幕を知らず
第一に田舎出の人々は、東京普通の内幕が十分に判らないのである。東京の普通の商家では、単に商業上の収入のみで一家の家計を立つることの出来ているものは、十中一二に過ぎない。他の八九は各々副収入によってその不足を補っている。すなわちあるいはその妻が商売の方を担任し、亭主は他に出勤してその月給によってこれを補っているとか、あるいは土地家屋を有してその収入で家計の一部を助くるとか、あるいは金貸しをするとか、ある者は周旋屋で、その手間手数料で家計を補うとか、ことに最も多いのは手内職である。例えば靴屋、指物屋、仕立屋等の多くは、その仕事を職工兼工店という方法で家計を立てている。というのは自分で仕上げたものを、内で売り、問屋にも出すという方法である。概して東京の商家はかような方法で、辛うじて経済を立てることが出来るのであるが、この事情に気がつかず、商売のみで楽に家計が立つように早合点して、数百千円の資本を抱いて来るのである。その結果は、月々に生計費のために追い倒されて、終には商を閉じなくてはならぬ始末に立ち至るのである。ゆえに信用を博して顧客を拡むるまで、すなわち一二年の維持の出来るだけの資本を準備しているものか、または職業の手腕を持っている者ならば、まずとやかくと立ち行く方法を講じられようが、少ない資本をもって妻子を伴れて東京に出て来る、やっと店を開いて右より左に商売の売上げ高で一家を支えて行こうとする者はきわめて危険である。多くの失敗を招く人々は、この事情に対する準備がなくて、地方の生活と同様の考えをもって胸算用を立てている人々である。
二、開店場所の選択を誤るに在る
すでに多少の資本を抱いて地方より出て来た人が、いよいよ商店を開こうとするに当って、まず場所の選択について見当を誤まることが多い。これがそもそも失敗に陥るべき根源である。いったい如何なる場所に開店すべきかということは、当人の資本の多寡と
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