めることは出来ないのであります。
また郷里信州の林檎でも同様の経験を致しました。およそ十一、二年前、郷里の知人から良い林檎が出来るから、東京の市場に出して貰いたいという希望を添えて、林檎を一箱送られました。これがまたペルー式で、上部の二十四箇程は実に美事でありましたが、下は上中下様々で到底都会に出し得る商品価値がありませんので、私が提言して青森から技師を招き、林檎の栽培法を改良すると同時に、その販売法をも改めさせることに致しました。その結果、ここ数年来は信州林檎の声価が大いに上り、本年の如き信州林檎四十斤入りが、青森産の四十八斤入りよりも高価に取引されるという情況であります。すなわちこれは商品の普及性についての改良の結果でありますが、これと同時に商品の整理方法、意匠、容器等のことについてもまた考慮を払わねばなりません。私の店の例を申し上げますと、中村屋のカリントーは商品そのものは評判がよろしいが、何分にも色が黒く体裁が悪く、しかも袋入りでありますから、美味しいにもかかわらず進物用にならなかったのであります。そこで工夫の結果、美術的の意匠を施した缶入を作りました。これに中味三斤を入れて八十銭、缶代の二十銭と加えて定価一円也で売出してみますと、たちまち進物用としての価値を発揮して、今日ではすこぶる好評で、京都、大阪辺の旅館等から五十缶、百缶という大量注文があるばかりでなく、満州、支那までも進出するに至りました。僅かに紙袋を缶詰に改めただけのことで、かくも売行きに相違が出来るものであります。
森永さんがキャラメルで年額一千万円の売上げをみて居りますのも、五銭十銭、というあの軽便なケースを考え出したところに、今日の大をなす原因があったのであります。
また佐賀の小城のようかんは古くから赤道線を越えて、遠く海外に輸出されることで有名であります。しかし遺憾ながら砂糖量が多過ぎるため、味も風味も失われて居ります。私はここにヒントを得まして、味も変らず風味も失わずに赤道線を突破し得るような工夫をしてみたいと思いまして、缶詰ようかんを作り、また昨年から、さらに水ようかんの缶詰を作りましたところ、在外同胞の間に意外な好評を博し、今日では既に世界の隅々まで進出するに至りました。せんだって南洋から来たお客さんに、あちらで内地気分を味わわれたと感謝され、大いに面目を施した次第であります。
能率より無駄を省け
スピード時代だからとて、能率万能の如くに申さるる向きもありますが、私は今日の如く機械力が進めば、だいたいこの方面の問題は解決する。従って能率についてはさほど心配の必要はないが、スピード時代の弊害として、とかく物を粗末にする傾向が甚だしくなってまいりましたから、我々はこの点に対する注意を怠ってはならないと思います。否むしろかかる時代において、さらに一段と注意を払って、物を大切にして、微細な物といえども決して粗末な扱いをしないようにすることが、より必要なことであります。
菓子職人においてこれを観ますと、材料の扱い方が実に粗末で、パン職人の如きはちょっとした焼き損いや不出来なものは、自らの失敗をおおわんがために燃してしまうのであります。料理人は主人のものという頭が働いているからでありましょうが、これは誠に悪い傾向であります。私はこのような悪傾向は何とかして一掃したいと考え、絶えず注意を怠らずに居たのであります。昔は我が国でも物を大切にするよい習慣がありまして、米一粒でも粗末にすると仏罰が当るといってやかましく戒めて居たのでありますが、近頃ではかような立派な考えは全く地を払った様であります。
また西洋人は経済思想が発達して居りまして、よくものを大切にしこれを利用することを研究します。日本料理などでは、良い部分だけを用いて他は棄ててしまいますが、西洋では骨も筋も少しも捨てず脳味噌までも利用致します。日本古来の戒めは物に対する感謝からであり、西洋のは経済思想の発達からでありますが、現代の日本人にとっては、ともに採って以て範とすべき美点と考えます。私の店で数年前雇入れたロシヤ人のチョコレート技師は、この点実に見上げたものでありまして、ほとんど紙一枚、釘一本といえども粗末にしない。例えば、チョコレートやクリームを紙に巻きしぼり出して菓子に飾りを描いたその紙を日本の職人はそのままポンと投げ捨ててしまいますが、このロシヤ人は、その紙を粉の上にチャンと伸ばして、さらにその上に粉をふりかけ紙に付着した材料をば綺麗に拭い取って、初めてその紙を捨てるのであります。一事が万事で、彼の工場には塵一つ落ちて居らないのであります。彼の俸給は四千円でありますので、最初は少し高過ぎたかと考えましたが、彼の働くチョコレート工場はもちろんのこと、他の六つの工場までが皆彼の感化をうけて、物を大切にするように改まってまいりました。
無駄の最大なるもの
私が前申し述べましたことは、無駄の中のむしろ小なるものであります。私が三十年前、日本菓子の製造を始めた当時は菓子職人に悪い習慣があって、卵や砂糖を持ち運んだり賄賂をとったり致したものであります。私はこれを発見しましたのでそれをただちに解雇して他の者を雇ってみましたが、やはりこれも同様でありました。私はこの浅ましい習慣が、小店員に感染してはその父兄に対して相済まぬと考えましたから、当時第一流の菓子店主達に相談してみますと、菓子職人は皆同様であるから、その不当収入を毎日一円と見積れば、実収入月に五十円、彼らとしては相当なものだという話で、まるで店主側でも彼らの悪習慣を公認している様子であります。これでは可哀想にも正直な職人は何年経っても妻子を持つことすら出来ないのであります。私としては、こんな矛盾は一日も黙認することは出来ませんから、ただちに職人の俸給を一躍二、三倍に増額しその代りにこの悪習慣を改めざる者は即時解雇する旨厳命致しました。幸いにその後においては、二、三の不心得者以外はこの禁を犯すものなく、この問題は解決したのであります。
これと同様の話が三井家にもあったと聞いて居ります。江戸時代越後屋(三越の前身)の大番頭の俸給は、僅か三両でありましたが、問屋からのツケ届けによってその生活は大名暮しだったそうであります。この風習は明治時代になっても依然として残って居りましたが、三井家中興の大功労者、中上川彦次郎氏は、まず第一にここに着眼し、三井家全体の使用人の俸給を一躍数倍に増額し、同時に彼らの賄賂を厳禁して今日の大三井の基礎を築いたということであります。今日でも一般社会にはなおこの悪習慣が行われて居りますが、その責はむしろ雇主側に多いと云わねばなりますまい、すなわち主人は、雇人の生活の必需俸給を惜しんで、かえってこれに幾倍する損害を受けて居るのであります。これは無駄の大なるものであります。
またこのほかに商売や事業に極めて熱心な主人の往々にして陥り易い大きな無駄があります。職業に熱心な主人にとっては、その仕事はむしろ楽しみで、従って倦むことを知らない。夜は十時、十一時と時の経つのも忘れて居りますが、翻ってその下に働く人の身の上を思い合せて御覧なさい。実に惨めなものであります。店則には帰宅時間の定めがありましても、主人の執務中、自分だけ帰宅することは出来ず、満々たる不平を懐きつつ主人の退くのを今か今かと待って居るのであります。されば、これらの人々の執務時間は、十四五時間に及ぶとも、その能率に至っては早仕舞を楽しみつつ喜び勇んで働く人々の八時間にも劣るものであります。こうして仕事好きの主人は、毎日毎日使用人の数時間を無駄にし、彼らの家庭の団欒をも失わしめるのであります。また使用人中には何らの不平もなく、十五、六時間を真剣に働く殊勝なものもありますが彼らは過労の結果、業半ばにして倒れるものが多いのであります。これは大切な人間の生命を無駄に終らせるのでありますから、これこそ最大の無駄といわねばならないのであります。
かつて欧州大戦当時、神戸の独逸人商館に勤めていた友人の話に、その主人は毎夜十一時迄も仕事をして居りましたが、使用人にはことごとく五時半限りとして帰宅させました。ある時友人が主人に少しく手伝わせて貰いたいと申し出ますと、彼はこれに答えて、祖国独逸の人々が、今戦場に生命を曝しているのを思って私は働いているのであるが、諸君はすでに定められた今日の職務を果したのであるから、私に対する懸念はいっさい無用であると断られたということであります。
また前内務大臣山本達雄氏が、内相後藤文夫氏に対する事務引継ぎの際に、貴君は農林大臣当時夜中までも会議を開いていたと聞いて居るが、内務省では退庁時間を尊重するよう取計って貰いたい、これが私の事務引継ぎである、と述べたと当時新聞紙上に報ぜられて居りましたが、これこそ人に長たるもののまさに心得べき金言であると思います。
廃物の利用
薯蔓《いもづる》式経営といって、一つの事業から生ずる廃物を他に有効に利用して、それからそれと利益を挙げます。例えば昔はコールタールは、ブリキ屋根を塗る以外に用途の無かったものでありますが、今日では九州の三池炭山やその他等においてはコールタールから染料を製出して、従来独逸から輸入されていた数千万円の染料を防ぎ止めるだろうと云われて居ります、私の店でもこの点に留意しまして従来捨てて置いたパン屑を利用して犬ビスケットを製造する事に致しました。これが幸いに英国や独逸から輸入している犬ビスケットを圧倒して居るのであります。舶来品は一斤六十五銭、これに対して中村屋製品は二十五銭でも、栄養分はかえって舶来品に優って居りますので、犬は正直にも舶来品よりもよろこんで食べます。
またわが北海において蟹缶詰を作りますが、蟹の甲羅は初め海中に捨て去られて居たのを、オランダ人が発見して買い取り、本国に運んで鶏の餌に致しておりました。その結果かオランダ卵は黄味も濃く味もよろしく、世界第一位の品位を得て居ります。日本の如く物資の乏しい国において、かかる有料な材料を他国人に利用されて居る事は甚だ不名誉の至りと言わねばなりません。
その他例を挙げれば、枚挙にいとまないほどでありますが、これは将来我々が各方面にわたって研究すべき重大な問題でありまして、一概に廃物などと軽視する傾向を一掃して、廃物のない社会を理想として、我が日本を発展せしめなければならぬと思うのであります。
一人一店主義
一人一業主義という言葉は聞いて居りますが、私は一人一店主義であります、私は創業以来支店は持ちません。銀座の如き目抜きの場所に、支店向きの適当な譲店が出たなどと誘惑をたびたび受けましたが、私は主義として、一人には一つの店で充分なりとの信念をもって終始一貫してまいりました。特別に偉い人であれば格別でありましょうが、我々普通の人間にとっては、数多い店を管理することは、決して策を得たものではないと思います。二兎を追うものは一兎をも得ずの諺の如く沢山の支店を持つ人の例をみましても、多くは不結果に終るようであります。それは多くの支店の中には、必ず赤字のものが出来る、そして好成績の支店の利益を蚕食するか、あるいは本店を傷める結果となって、全体としては結局大したこともないという結論になるのが普通であります。もしまれに相当な成績を挙げ得たものがあったと致しましても、その人がもし一店に全精力を集中したならば、さらにより優秀な結果を収むることが出来ると考えます。ゆえに私は間口を広くして奥行の浅い行き方よりも、間口を狭くして奥行を深くといった方がはるかに安全にしてかつ合理的であると信ずるのであります。また研究して見ますと、たとえ一店だけでも、これで充分だということはなく、奥はますます深く限りないものでありますから、一店だけでは不充分だなどということは、とうてい考え得られないのであります。そしてこの行き方こそ、真に職業に忠実なるものであると堅く信じております。
あるいは御差障りがある
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