力、海水浴等人の喜ぶことはことごとく一等席を与えてこれを観覧せしめ、他を羨むことの無いように致して居ります。また毎月一回講話会を催しまして、苦節よく一家をなしたる知名の大先輩に御願いして、その経験を伺い併せて目の当りその人格に接し、無形の感化を受けるように致して居ります。
さてここに人事が遺憾なく行われ、能率も上り、品格ある人物が集りましても、もしもその経営よろしきを得なかったならば、まだまだ安心と云う事は出来ないのであります。随分繁昌する商店にして往々にして破産閉店するもののあるのは、多くこの経営の不合理に原因するのであります。
仕入
経営の第一要点は仕入であります。品質、値段、季節、産地等、その間の事情をくわしく調査した上で仕入れるのはもちろんでありますが、問屋を相手とする場合とても、御得意に対すると同様に、親切をもって終始する心掛が最も必要であります。
ある人は、「仕入の代金は月末に支払わないで翌月の五日払いとすべし。しからば五日分の金利を利する事になり、これを十年、二十年と続ける時は、莫大の金高に上がる」と云われましたが、私はこれと全く反対の事を皆様に御奨め致します。
仕入は現金買を主義として、月末払いの場合にも決して翌月に持越してはなりません。些少の金利を目当に支払を延期するとか、問屋の足下につけ込んで値切り倒しなどをして、これを称して商売かけ引の上手のように考える人がありますが、これはとんでもない誤りであります。支払いを延して問屋や荷主に不便と不安を与えるほど不得策なことはありません。必ずその仕入は割高となりまして大量購入の百貨店に対抗する事が出来なくなります。百貨店は多く先付の約手で仕入を致して居りますので、現金仕入なれば百貨店より格安の仕入が出来るのであります。
材料の精選
すべて何品によらず、その原料がよろしくなければ、その製品の佳良を望む事は出来ません。ここに一例を申しますと、鶏卵でありますが、在来の鶏は一年間に七八十個の玉子より産みませんが、今日行わるる改良種は平均百八十個産みます。ところが一利一害は免れぬものでありまして産卵の少ない在来種の玉子は滋養分も多く、味もはるかに勝り、黄味は実に濃厚であります。それゆえ、彼の有名な長崎カステラでは改良種の玉子を避けて、上海の在来の種卵のみを用いて居ります。私の店でもこれに倣いまして、わずかに現在残って居る在来種の玉子のみ集めてカステラその他に用いますが、この玉子ならば少しも着色の必要がありません。
また、カレー・ライスに用いる米であります。これには古来食通の推称する白目種が実に適当して居るのでありますが、此種類は収穫が甚だ少ないため、まさに滅種[#「滅種」は底本では「減種」]せんとして居りましたので、これを二割高で引取る約束でようやく栽培して貰って居るのであります。
かかる細かい注意も個人商店にして初めてなし得る所でありまして、大衆向の百貨店には行い難いことであると思います。
販売の均一
商売はその種類により、季節により、また晴雨その他のいろいろの事情によって繁閑がありますので、販売高を毎日平均せしむる事は不可能でありますが、経営上の理想と致しましては、毎日平均の売行きを望むものであります。この点においては百貨店は実に都合よく経営されて居りまして、日常生活の必需品がことごとく取揃えてありますから、一年中を通じてほとんど平均の売上げを致して居ります。
しかるに一般の小売店は、その販売する品種が二三に限られて居りますので、春に忙しい店は、秋は淋しく、夏向きの店は、冬は休業同様であります。これでは百貨店対抗は難しい事でありますから、私も何とかして販売の均一を計りたいと思いまして、以前はパンのみを売って居りましたがパンは夏期は盛んに売れますが、冬期にはおよそ半額に減じますので、この不足を補うために、夏に少なくして冬に大いに売行きのある餅菓子を併せて売る事と致しました。それからつぎつぎと洋菓子、支那饅頭、チョコレート、牛乳、水飴等と多数のものを売る事と致しました結果、今日では四季を通じてほとんど平均の売上げを見るようになりました。就業時間は百貨店と同様でありますが、販売員一人当りの能率は、著名な百貨店のそれよりも立ち勝ることとなりました。
広告
それから広告でありますが、私は広告はあまりしない方針であります。先頃広告研究会から、私に話に来いと云われましたが、その返答に迷惑したような次第であります。
広告はその店の存在を示し、また新発売品等の宣伝等には欠くべからざるものでありますが、広告費のかさむために、商品の販売価格を引上げなければならないようなことは絶対に避けねばなりません。
元来米国の如く、境域広大であって建国の歴史なお若く、いわゆるシニセ(老舗)のなき所に在っては、店の存在を示す手段として、広告に頼るほか途がありませんから、米国人は広告に力を入れること、実に世界第一であります。しかし、英国や独逸、仏蘭西の如き、古き歴史を持つ国に在っては、信用ある店は広告を致しませんでもよく売れますので、それだけ品質に値段に勉強致しまして、広告費としては経営費の極めて小部分を割くのみであります。
我が日本では、とかく米国を真似る傾向がありまして、広告の如きも、米国に次いで世界第二であると聞いて居りますが、私はむしろ欧州に学ぶべきだと思います。
広告好きの米国に在っても、チェン・ストアは、広告費を非常に節約して、売上高の千分の四に止め、米国百貨店の千分の三十二に対して僅かに八分の一にすぎないのであります。今日チェン・ストアが百貨店を圧倒するかの如き勢いあるのも、決して偶然ではないのであります。
私の店の広告費も売上高の千分の四で、我が国百貨店の約五分の一であります。
配達料
先ほどどなたかのお話に、京都では百貨店対抗策として、共同配達の方法を講じたとの事でありましたが、私の所では店売のお客様との釣合を考慮し、また配達費の意外に莫大なる点に鑑みまして、遠方の御注文には配達料を戴くことにしてあります。これには御得意様の中にも「中村屋だけが配達料を取るとは怪しからぬ」と申される方もありますが、私の店のような安い商品を東京市中無料配達を致しましては、売上げの三割も配達費に失われ、とうてい商売は成立ちません。彼の百貨店の如く八方へ配達網をもってしましても、その配達費は意外にかさみ、三越で一戸当り三十二銭、松屋で四十銭と承りました。私の店ではおよそ五十銭となります。
そこで、私はこれが対抗策を考究致しまして、配達料として電車賃の十四銭(但し五円以上は無料)を戴くことに致しました。配達実費の三分の一にも足りませんが、その結果は意外によろしく一円以下の小口の御注文も二、三円に改まり、過半は五円以上となりまして、一戸当りの御注文平均七円を超え、売上金高に対しての配達失費は百分の六に減じました。これを三越の百分の八(売上一戸当り四円)松屋の百分の十(売上同上)に較べかえって格安となっております。
以上、申し述べました事は百貨店対抗策の一端に過ぎませんが、要するに小売商人が、従来の如く自己本意の商策を弄せず、社会の進歩、生活の向上発展に寄与するの精神をもって、合理的研究を怠らないならば、すべての難問題も容易に解決し得らるる事を確信致します。
学術的研究の必要
学術的研究を云々するのは、釈迦に説法の観がありますが、商売を致して居りますと一般に学術的研究が疎略にされ勝ちであります。
私が帝大前に店を持って、まず第一に悩まされたのは、店員の脚気でありました。脚気は商店病と申してよいくらい商家に多い病気であります。しかしこれはヴィタミンBの欠乏に原因するものであることは学術上立証されましたので、食事その他について注意を払いました結果、現二百名余りの店員中に一名の脚気患者なしという状態で、学術の恩恵は誠に偉大なものであることをありがたく感謝して居ります。
また数年前アメリカから輸入される乾杏が、多量の亜硫酸を含むという理由で、発売を禁止されたことがありますが、これが動機となって私も研究を致しました結果、食料品に亜硫酸を含むものの少なくないことを発見して驚いた次第であります。亜硫酸は物を晒す力のある薬品でありまして、赤砂糖でもこれで晒しますと雪を欺くような白砂糖になりますので、世間ではこの能力を悪用して、粗悪品を優良品に見せかけようとすることが盛んに行われ、亜硫酸の需要は実に莫大な額に上がって居ります。
そこで私は製菓原料を仕入れるに当って、これ等の有無を見分けることはきわめて重要であると考え、最初は衛生試験所を煩わして居りましたが、毎日使う材料でありますからとうてい間に合いません。そのために独立した試験所を設けました所、私はまず第一に従来原料として用いていた水飴について甚だ無知であったことを発見したのであります。
水飴は餅米から製造され、いわゆる飴色という一種独特の色を持って居るものですが、二、三十年前から晒飴という透明で美しい飴が出来まして、一般社会では、これが従来の飴の改良されたものと信ぜられ、製菓材料としてのみならず、壜詰として広く販売されて居るのであります。これ等の晒飴は亜硫酸を含有して居るものがあり、原料そのものが昔のものとは全く違った安い材料から作られているのであります。すなわち晒飴の原料は、馬鈴薯とか、サツマ芋、南洋産のタピオカ等でありましてこれらの製品を亜硫酸で晒して作られたものが多いのであります。この安い原料で作られた晒飴は、古来の餅米製の飴に比較して、約五割の安値で、かつ見た目にはかえって美しいところから、餅米製の水飴はほとんど市場から駆逐されてしまいました。
元来水飴が子供、産婦、病人等に愛好されたのは、餅米から製造されて滋養があったからであります。しかるに今日の晒飴は、害になる亜硫酸を含んで居るものも少なくないのであります。私の店では二十年ほど前から水飴の販売は中止して居りました。それは昔からの伝統で一流の菓子店では、水飴を売らないことをもって一種の誇りとしていたからであります。しかるに今日の如く、真に滋養豊富な餅米からの水飴が、東京市内においても容易に手に入れ難い状態をみましては、伝統などにこだわるべきでないと考えまして、この水飴を販売する事に致しました。その結果は売れ行きも意外によろしく、今日では一かどの商品となって居る訳であります。
これは私の経験の一つを申し上げたにすぎないのでありますが、学術の応用は御客に対しては親切となり、また店の繁栄の原因ともなるのでありますから、将来ともにこの方面の研究はますます必要になるものと信じて居ります。
商品普及性の研究
菓子店では昔は品物を竹の皮か経木に包んでお客に渡したものであります。当時のお客さんはだいたいにおいて近所近辺でありましたので、これでも充分間に合ったものでありますが、今日の如く汽車や飛行機で交通する世の中となっては、もはや竹の皮のお客ではなく、内地はもちろん、外国までがお客筋となった訳でありますから、そこにまた一つの工夫が必要となる訳であります。文明国だ、未開国だと申されますが、一面商品に対するこの工夫の有無によって区別されると申して差支えなかろうと思います。
先頃、私の所へ南米ペルー国から来客がありまして、同国産の桃の缶詰を土産にくれました。早速口を開けてみますと実に美事なもので、味もまた申し分なく、今日世界一の称ある北米産の桃に較べて、かえって立ち勝るくらいでありました。これを北米産に代えて利用したならば、甚だ面白かろうと内心楽しみにして、その次の桃を引き出してみて驚きました。色は悪く、形もまた貧弱で、最初の姿はどこにもありません。一缶中十箇十色という有様で、商品価値は全くゼロでありました。これに反して北米産は実によく均一されて居りまして、幾缶開けてみましてもほとんど優劣の差を認
前へ
次へ
全33ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 愛蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング