かも知れませんが、世間には一人で幾十という会社の重役を兼ねて居るのを見受けますが、特別な偉人でない限りこれは無責任のそしりを免れないものであります。
いたずらに形だけの大小に捉われて、その質を忘れることのないよう、自ら戒めて戴きたいのであります。
商売は公明正大
昔は、商人というものは甚だ軽蔑されて、まことにつまらない待遇を受けて居った。また商人自身も、自分は、学者、政治家、軍人等と、対等のものでないというような考えで、自然卑屈に流れ、商売は正々堂々でなく、まあ儲けさせて貰うのだから、小さくなるのはやむを得ない、無理を言われても我慢してなくちゃならぬものというふうに考え、またそういうふうに教えられて来た。
しかし私は、はじめて商業に従事した時、このくらい自由なものはないと感じた。これが勤め人だというと、いくら真面目に働いても、上役の御機嫌にそむくようなことがあれば、直ぐやめさせられてしまう。ところが商売は、自分が真面目に勉強すればするだけのことは現われて来る。これが官に就いているとか他人に使われている身分だとすると、仕事を少し怠けても御機嫌をとることがうまくて上役とか御主人の気に入っていると出世する。いくら真面目に勉強していても、触りがやわらかでなく、ゴツゴツした持ち前だなどとなると、とても頭が上がらない。とにかく商売くらい正直で正確で自由なものはない。と考えて自分はこの商売にとび込んだのである。
商売は社会奉仕のひとつ
また商売というものは、決して得意に対し、恩恵を受けるものでないと考えている。人様の必要な品を揃えておいて、何時でも必要な時に間に合わせる。もしそういう商売人がなかったら、人は食べることも寝ることも出来ない。まるで人跡絶えた山の中に入ったようなものである。至るところ商売人があって、宿屋もあれば料理屋もあり物を売る店があればこそ、旅もたのしく、生きていることに幸福があるのである。
そういうわけで、商売をしている人は、得意があるから生活も出来るが、得意の方から見れば、やはり商売人がいていろいろなものを供給してくれるから愉快な生活も出来るのである。魚が食べたくても、魚屋がなく、自分が釣りに行くか、河岸まで買いに行かなければならぬとなったら、非常な不便である。私は商売というものは対等なものであって、何も小さくなる必要はないと思う。物を買ってもらうということは恩恵ではない。これは人様の必要に応じて売るわけであって、決してこちらから卑屈になったり、恩恵的に恐縮したりすべきものではないと思う。
商売の基は勉強
それでは商売の基本はどこにあるかということになると、手数というものをなるべく少なくして、お客様に良い品物を格安に売るということであり、またそれが人に対する好意であり、同時に人に喜ばれる原因で社会奉仕である。それをお世辞や嘘で固めて、無理に買って貰うということになると、旧式の金儲け主義で、同時に恩恵的になる。ちょうど孤児院あたりで十銭の筆を三十銭でどうか買って下さい、大勢の子供がお粥も食べられませんからと訴える。これは恩恵的である。十銭の物を三十銭貰う、つまり二十銭だけその人の義侠心に訴えるのである。商売はそうでない、十銭の原価のものに一銭五厘なり二銭なりの手数料を見てそれで売るので、得意が自分で他に買いに行けばそれ以上高くなるゆえに、これは少しも恩恵的ではないのである。
恩恵的でもないものを、日本の昔は恩恵の如く考えた。従って買う人は非常に傲慢なものであって、どんな無理を言ってもよいというようなことが往々にしてあった。私はこれはだんだん改革せねばならぬと考えている。これから商売に従事する方も、共にこういう心持で行かぬことには文明の商人としての価値はないと思う。私は二三年前に欧羅巴に行ったが、彼方では商売人というものはむしろ尊敬されている。その代りまたやり方も非常に堂々としている。日本の維新前の武士は無理は言っても良い、商人などはどんなに侮辱しても構わない、と言ったような習慣でこれが現在にもまだ何分の一か残っているが、新時代においてはどうしても今まで述べたような方針でなければ、本当の商人になる資格はないということを私は断言する。それで自分がそういう見地から、三十年来やって来ました実地の話を手短かに致そうと思う。
秘訣の第一は正札売り
商売をする上において、正札で物を売るということがきわめて大切だと私は思う。何商売に限らずこうすべきで、正札でないと負けろという人には負けてやり、黙って買うお客様には結局高いものを売りつけることになる。こんな不合理なことはない。値切らない良いお客様に高く売って、値切るお客に安く売るというような不合理なことをする店は、決して大成するものではないと思う。私の店は三十年の間に、ちょうど売上げが二百倍になったが、私は正札主義で、どのようなことがあっても割引はしない。それでずいぶんお客様の感情を損ねた場合もあるが、その代り、もうこれより勉強の出来ないぎりぎりの決着の値をつける。いくら頑固に、俺の所は負けないと言っていても、他の店より高い値をつけておけば、誰も買いに来なくなってしまう。正札という事と最大の勉強ということとは、ぜひ一緒に行わねばならぬ。そういうふうにすればさらにやましい所はないのだからやたらに小さくへり下る必要はない。お客様に対して良い物を安く売ってあげるのだという腹があるからお客様の無理に対して、ヘイ御無理御もっともという必要はない。あまり無理をいうお客ならこちらからお断りする。そういう底力があったならば、自然そこに強味と自信が出来る。お客様の方でもやはり頼もしい、ああいうふうに確信を持っている店なら必ず高くはなかろう。我々を引っかける事はなかろうという信用が出来ますから、店はますます繁昌する。
無料配達廃止
そこで正札制をやって、断じて割引の出来ない値段を発表しますと、無料配達というようなことも出来なくなって来る。もちろんこれは皆様の中には、色々な商売をやっておられて、一様に申せない向きもあろう。この間もこの話が出たら、ある炭屋さんが、あなたのように菓子屋さんはそれはなるほど正札で、配達しないというわがままも言えるだろうが、私のような炭屋は「配達致しません、奥様どうぞお持ち帰り願います」というわけには行かないとこう言う、これはもちろんそうでしょう。無料配達をやらぬと言うのも程度があって、炭だの薪だの近所のお客様に対して、うちでは配達しませんから奥さんお持ち下さいというわけには行かぬ。それはやはり常識で、そういう場合を言うのではない。この頃は百貨店で無料配達を盛んにやっている、初めは郊外ぐらいだからよいと思っていたが、前橋、高崎、軽井沢、小田原、箱根、または千葉方面まで無料配達をしている。石鹸や金盥を買っても配達をする。聞いて見るとこの一個当りの配達費に六十銭も七十銭もかかっている。こういう無謀なことを一方にしているから、自然何かでうんと儲けるという、そこに一つのからくりを要する。それでなくては営業が成立って行かない。
私は総じて利益というものは、店の経営費と生活費さえとれればよいという方針で、正札を付けて居るから、お前の所のパンを大宮まで届けてくれとか、築地まで届けてくれとかいう御注文に対しては別に配達料を申し受けて居る。今の百貨店は、高崎や前橋にまで配達する。無論損である。損をしていながら高崎や前橋の同じ品物を売っている店に迷惑をかけている。実に不合理なことである。それで本当に合理的に商売をするには、無料配達ということは結局出来ない事になる。
中元歳暮廃止
次に私の所では、中元歳暮の配り物を廃して居る。これはどうも商人がそういう事をするのは間違っていやしないかと思われるかも知れない。現にうちの店員などが他所へ行くと、お前の所では年の暮に何も持って来ないじゃないか、他の店じゃたいがい何か持って来るぞと言われることがあるが、私の所では得意からえらい恩恵を受けたとは考えない。お得意様にはどこよりも安く勉強しているという自信がある。また実際そうですから、従って利益も少ないから、あまり必要でない御歳暮や中元は贈らないことにする。それにはまた配る費用というものが相当かかる。もしこういうことをやろうとすると、自然それだけ利益を戴かなければならぬから、日頃の勉強が出来ないことになる。もっとも問屋の小僧さんなどにはやっている。これは何故かというと、東京の商売は御承知の通り、自分の店でいろいろ整えておいても、場合によるとにわかに品物が切れることがある。そういう時に問屋に電話をかけて、どうか頼むというと、問屋の小僧さんが自転車か自動車で直ぐ持って来てくれる。それが一年の内には何十遍何百遍かになってどんなに苦労をかけているか知れない。それで私の所では、出入りの問屋、材料を納める家の小僧番頭には、まあ一円ないし五円くらいの歳暮中元を贈って居るが、お得意様の方にはついぞ葉書一枚も持って行ったことがない。甚だ不愛想のようだけれども、それだけ実際商品の方に勉強しているので年々お客様がふえて行く。いくらそういう物を持って行っても、品物が不勉強だとどんどんお客様をほかに取られてしまう。百貨店などでも、停車場へ降りるお客様を自動車に迎えて、どうぞうちの店に来て下さいと、サービス専ら努めている。そこで白木屋とか三越とかの近所へ行く人までがさっさ[#「さっさ」に傍点][#「さっさ」は底本では「さつさ」]と乗る。まことにそういう人には便利に出来ている。けれども費用がなかなかかかる。自動車一台でまず一万円以上するだろうし、修繕費は要る。運転手の費用とか、その他いろいろの費用を見るとなかなか要る。これもサービスで結構だというけれども、東京中の人を乗せるのなら、これが本当のサービスだけれども、自分の店の近辺を通る人を乗せるだけでは、真のサービスとも思われない。だからこういうことも私の店ではやらない。一方に経費をうん[#「うん」に傍点]と省かなければ勉強は出来ない。無駄な経費を飽くまで省くということがつまり勝利を得る所以だと、私は常に考えて居る。
御用聞き廃止
次に御用聞きということも私はしない。これは酒屋さん、あるいは八百屋さんなどは、まだ日本ではちょっと止められぬかも知れないと思うが、これも原理として御用聞きというものはすべきものではない。これをして居ったのでは結局負けると思う。今日小さい商店が一番悩んでいるのは百貨店と公設市場の問題である。公設市場はものが安い。御用聞きに来る肴屋、八百屋などに較べると安いといって、みな公設市場に買いに行く。これは安く売れるわけである。何故かというと御用ききに来る方の商売人にして見れば、あの重い荷を担いで狭い裏通りに入って来て、「今日は」と廻る。奥さんの手がふさがって居って、何んだかんだとしばらく待たされ、いや今日は魚は止めだと言われる。またお願い申しますと言って帰る。そんな具合で三日に一度ぐらいしか用がないのに、重い荷をエッサエッサと担いで毎日廻らなければならぬ。そうして勘定になると月末の勘定である。しかもややもするとその月末の勘定が貰えないで、二月も三月ものびる御得意もあれば、何百軒の中には、一軒や二軒は月末になるとどこかへ行方不明になってしまうものもある。こういう不利益、いろいろな手数をかけているから、どうしても公設市場の物より高くなるのは当然である。公設市場が安いというのは配達料を見ず、貸倒れを見ず、集金の費用も見ずですから市場ではものが安く売れるわけである。今の日本の家庭のように、奥さんやお嬢さん達が面倒くさがって奥に引っ込んで居って、御用ききが来ても、女中伝えで物を注文するというような不合理なことをしている家庭が多いうちは、まだ御用きき制度というものは役に立つけれども、とにかくこういうことをしていると、自然高く売らなければならぬ。公設市場が安いのは無駄な費用が省け
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