に趣味を感ずるに至らずして中途で廃するものが多い。
また彼らは女学生上がりが奥様風を好んで町人風を装うのを厭がる如く書生上がりの職人も昔の書生風を脱却するに逡巡躊躇するものの如く見える。同じ朋輩の職人や小僧と共に外出するにも、自分だけは羽織袴にステッキという扮装で、一見子弟を率いる先生の如くである。これ甚だ些細のことであるが、必竟書生風を脱し得ない輩は、その覚悟もまだまだ本気でなく、乳臭さが取れていないことを証明するのと見て差支えはない。また体力においても、小僧から鍛錬されたものよりははるかに弱くして、忍耐力少なく、僅かの労働にもたちまち疲労を来し、また自ら苦痛を感ずること甚だしいので、主人側でもこの書生上がりの職人を雇うことは非常に不得策で、使いにくいこと予想の外である。
苦学生採用の可否
前項において、書生上がりの者の職人として成功甚だ覚束なきことを説いたが、苦学生に至ってはなお然りとす。いったい苦学生の目的は学問を主眼にしてかたわら僅かの労働をなし、それによって学資と衣食の料に当てんとするのである。生活難が今日の如く甚しくなかった十数年前には、学僕と称して、庭掃き
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