っては如何程の苦痛であるかは、恐らく今の苦学生諸君よりもなおより多くその苦しみを知っている。ゆえに創業の初めはかなり有望な苦学生を採用する方針を取り、経済の許す限り彼らの便宜を計ったつもりであったが、これは全く失敗であった。これあながち彼らの罪にのみ帰することは出来ない。また我々が彼らを率いるに無能であったのでもない。つまり彼らは学問が目的であるからなるべく労働の時間の少ないことを希望する。これに反して我々の希望は営業の繁栄にあるのだから、配達小僧が今夜学に行くという理由をもって得意の注文を断ることが出来ない。ここにおいてか勢い被雇人と雇主との間が甚だ無責任で、無礼で乱暴であり、万事に不都合不体裁なことがしばしばあることしきりに非難するが、これもつまり雇主と被雇人とが方針を誤まった結果であって、ひとり苦学生のみを責めるのは少しく酷である。
 英国等では高等の学問を修める人々は、いずれも学資の裕かなる富豪や貴族の子弟であって、学資の乏しい貧家の子弟は学問などするものとは思っていないということである。今や我邦の趨勢もまさにこれに等しからんとする傾きがある。世の苦学生たるもの今にして顧慮する所なく、依然学問を万能と心得、職業を軽んじ、遊び半分に朝食前ぐらいの少しの労働で生活したり、学問することの出来る工夫あらんと、空頼みをしているならば、たちまち窮境に陥り、ついには不義理するようになる。悪友が出来る。そして身に一つの職業も学んでいないから、一個の労働者としてまことに価値のないものである。また学問も充分にしていないから、学校出身者と同資格を持って雇口を見出すことも出来ない。つまり虻蜂取らずの無頼漢になり終ってしまわねばならぬ。救世軍のブース大将の話に、印度で学問した青年は従来の職を嫌って始末におえぬとのことである。

    小僧と中年者及び小僧の適齢

 いずれの町内を見渡しても、小僧入用の木礼の掲げられていない町はほとんど[#「ほとんど」は底本では「ほとんで」]稀である。これ都下において、如何に小僧の欠乏しているかを示すところの一つの証拠である。何故かくの如く小僧の払底を来たしたかというに、ちょうど女中払底とその理由は同じである。貧家の子弟は尋常科も中途で廃業せしめられ、僅かの日雇銭を取るために、工場通いかあるいは役所会社の給仕としてやられるのである。彼らの必竟不了見なる両親の食いものとして犠牲に供せられるのである。またある父兄は極貧饑に迫る境遇でありながら、我が子を小僧見習に出すのをこの上なき恥辱と心得ている輩もある。これらが小僧払底の最大原因であろう。愛児を他家へ奉公に出すということは、情において忍び難いところであるけれども、かりに家において職工の下働きとして通わせたり、給仕として通勤させて三四円の金を得たところが、これは本人の食料にならぬではないか。また幸いにして昇進したところが、大発達を逐げられるものではない。しかるに小僧丁稚としてある業を見習わせておけば、その時ただちに月々送金するということは出来ないが、自分だけの食料は主人から与えられ、少しくらいの小遣銭も貰える。また数年あるいは七八年の後にはともかく一つの職業を覚えるから、主人から暇を取ってどこへ行っても一人前の職人として、あるいは番頭として、立派に生活して行くことが出来るのである。しかるに愚昧なる父兄はただ目前の小利のために愛児の前途を全く誤らしめていながら、少しも悟るところがないのである。
 小僧の不足に反して、二十歳より二十四五歳前後のいわゆる中年者の口を求める者の数多いことは実に夥しい。一日新聞紙上に店員募集の広告をしてみるに、早朝から様々の風態したる中年者の来襲を受け、応接するにいとまなき程である。彼らは如何なる種類の人であるかといえば、たいがいは学生上りの、のらくら者の果てか百姓に生れて百姓仕事を嫌いな田舎者もしくは中途で今までの仕事に厭気がさし、骨が折れずに金の沢山取れる職業に乗り換えんとする横着者であって、いずれも怠け性の者で、仕事に真面目でないこというまでもなく、小僧の欠乏よりせん方なく彼らの一人を採用して見るに、初めその店の事情に疎く、品目さえもまだ呑込むこと能わざるうちは、以前から雇われている一三四歳の小僧の配下にいて、すべての指図を受けねばならぬ。給金も未熟な新参の時代には多く与えられるものでないが、本人はなかなか腹の中で承知しない。また比較的小僧より広く世間を渡って来ているから、うまい物の数も多く知り、巻煙草ものめば、酒ものみ女も知っているゆえ、なかなかはした小遣銭では満足できない。そこで悪い方にはいち早く手が出るようになり、主人の物をかすめるか、あるいは得意先に不都合を働くかして、ついに主家を自らとび出し、あるいは追放されるに至るのである。
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