巨万の資本を面白く運転し、また商略上何らの故障なく、意の如く翼を伸ばし、あるいは豪奢をきわめる外国の来賓や本邦の紳士淑女を客としてこれに接するにより、不知不識の間に心気自ら大きくなり、一商店の主人としては万事あまり仰山過ぎて、小規模の店には適当しない。何事につけ仕掛が大袈裟で簡易に行わないで、御大家風であるから、この人にしてこの失敗あらんとはの嘆あらしめたのではあるまいか、これ大いに攻究すべき問題である。
 また製造業を兼ねた大商店になると、すべてのこと分業的組織となっている。例えば菓子屋についてこれを見るに、大店の菓子屋は※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]粉練りは、年中※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]粉ばかり練って、他の仕事に注意を払う暇がない。蒸菓子は蒸菓子の専門の職人これを製造し、洋菓子の職人は日本菓子には何の関係なく、煎餅焼また他を省ることなく、店番配達皆ことごとく分業的仕事に従事するから、もし被雇者にしてただ日給を得るだけの希望を持つか、あるいは他日自分で開店する時、初めからかく大袈裟に営業せらるる非凡の技量と資本とを有する人は論外として、普通の人間では僅々数年の間にすべてのことを洩らさず修業を積むということ、実に至難のわざである。これに反して二流三流の小店に入る時は、主人と共に販売のために経営苦心をなし、ある時は店番と配達を兼ね、ある時は工場へ入りて製造方の手伝いをなし、あるいは使いにもかけ出して行くという如く、万遍なく己が手足と知識とを働かすゆえに、自然経済的思想が緻密になり、いつしか商売の道のようなものを会得して、これがまた他の商売にも利用が出来て、非常によき修業となるものである。ゆえに商業を見習わんとする世の子弟またはこれが父兄たる者よろしくこの辺に注意して、将来の方針を誤らしめざるようにすべきである。

    書生上りの職人

 総じて書生上がりの細脛を使いこなすことは、実に容易なことではない。彼らはただ文字の上から労働神聖を謳歌するに過ぎずして、とうてい実行の人たることは出来ない。せっかく空想を捨て、着実な職業を学ばんとした決心は殊勝であるが、彼らの心底には(恐らく自分にも心づかざるべし)なお職業というものを一種の軽侮心をもって視るゆえに、労働に従事しつつ馬鹿馬鹿しいとの念が失せることなく、その職に趣味を感ずるに至らずして中途で廃するものが多い。
 また彼らは女学生上がりが奥様風を好んで町人風を装うのを厭がる如く書生上がりの職人も昔の書生風を脱却するに逡巡躊躇するものの如く見える。同じ朋輩の職人や小僧と共に外出するにも、自分だけは羽織袴にステッキという扮装で、一見子弟を率いる先生の如くである。これ甚だ些細のことであるが、必竟書生風を脱し得ない輩は、その覚悟もまだまだ本気でなく、乳臭さが取れていないことを証明するのと見て差支えはない。また体力においても、小僧から鍛錬されたものよりははるかに弱くして、忍耐力少なく、僅かの労働にもたちまち疲労を来し、また自ら苦痛を感ずること甚だしいので、主人側でもこの書生上がりの職人を雇うことは非常に不得策で、使いにくいこと予想の外である。

    苦学生採用の可否

 前項において、書生上がりの者の職人として成功甚だ覚束なきことを説いたが、苦学生に至ってはなお然りとす。いったい苦学生の目的は学問を主眼にしてかたわら僅かの労働をなし、それによって学資と衣食の料に当てんとするのである。生活難が今日の如く甚しくなかった十数年前には、学僕と称して、庭掃きや使い歩きくらいで生活したほか、勉学の費用まで与えられ、それで成功したものもまれにはあったが、今日の世の中はその時代よりも幾層倍せちがらくなって、堂々たる学士や紳士たちさえ、ただ糊口のために汲々たる有様となった。自分と家族が生活していくだけでも、なかなか容易のことではないのである。
 しかるに苦学生諸君はこの辺の消息は少しも御存じなく、東京は広い所で仕事の沢山ある所だから半日仕事して半日勉学の出来る方法は容易に見出し得るものと思って、田舎から押しかけて来る。それで己れの希望を容れて世話してくれる人をば、やれ無頼漢の、しみったれの、と途方もない悪口雑言を叩く不了見者もある。我々は貧民と同様に味噌汁と香の物を食いつつ生活しているものであるのに、ある苦学生諸君は我等の朝食料の幾分を節約して、学資を与えよ、然らざれば汝等は同情の念の欠乏せるものとし、共に道徳を談するに足らぬものとして諦めよう、などと、脅迫めいた手紙を送られることも珍しくないのである。
 そこで自分らも一度は境涯を経て来たものであって、また少年時代の学問に志を立てながら、学資の不足なために学問が出来ないと云うことは、その本人に取
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