やむを得ずこの学校出身者採用を全廃して、全く小僧仕立の番頭をもってこれに代用せしめたところ、着々功を奏して、前にはほとんど売上げがなかったものが、今一日平均数百円の多きに達し、しかも彼らの給料は僅か五円ないし十五円であると。学校出身者よろしく三省すべきである。

    今日の成功者は僥倖児なり

 今や全国の新聞雑誌にいわゆる世の成功者なるものの経歴談や逸話を掲載しないものなく、またこれが大いに今日の時勢に投じたものと見え、すこぶる世人の拍手喝采を受けているようである。久しく腐れ文学に頭脳を萎えさせていた日本人は、日に月に追窮し来る生活のために酔夢愕然として醒め来り、ようやく真面目に立ち帰らねばならぬ今日となり、一も実業、二も実業と、実業熱の大流行を来たし、ほとんどその極度に達した。しかるに新聞雑誌に大いに紹介さるところの人々は、みな一代の富豪で、いわゆる俄大尽のみであるから、さなきだに空想に駆られ易い青年などは、一足飛びに大金持になれるものと心得、実着細心を要する業務に従事することを軽んずる傾きを生ぜしめる。骨が折れずに体裁もよくてそれで金の儲かる仕事を望むようになる。けれども世人が羨望措く能わざるところの富豪は、もとより非凡の人たるはもちろんなれども、おおむね戦争を利用し、あるいは投機的事業を企図し、あるいは高位高官に取り入りて、莫大の利を得たるものが多く、その敏腕を称せらるる内には、必ずある一種の不正を加味せられざるものほとんどなしと聞けり、世にかかる浮雲に等しき富を望む者の多きは歎かわしき限りである。
 ここに当店へ出入りの油屋、彼はもと越後の小百姓であったが、地主へ奉公するも一生開運の見込みなきところから、夫婦相携えて他に糊口の道を探すべく東京に出て来た。着するや直ちにある裏店に居を占め、さて如何なる仕事に就いたものであろうかと思い迷ううち、国もとから持って来た金のうち二十円を食い尽して、残るところ僅かに二十円、これが彼の唯一の資本金であった。彼はせん方なく当座の仕事として石油の行商を始めた。すなわち戸ごとに「油屋でござい」と呼び歩くのであるが、初めの数日間は終日かけ廻って僅か数軒の得意を得たばかり、かくてはとうてい夫婦の口を糊するに足らないので、彼は夜は辻俥《つじぐるま》を挽き、これで得た金を食料に当て、先に資本として残した二十円には決して手を着けぬことに決心した。また彼の叔母に当る人で、金持の呉服屋があった。けれども彼は立派に店でも持たないうちは出入りをしないことに心をきめて、いささかも依頼することなく、朝は未明に起きて油を売り、夜はわらじのままで板の間に腰かけて夕食をしたため、惰気やねむけの催さぬうちに、また暗の中にかけ出して俥を挽き、粒々辛苦実にいうに忍びざる苦境を経て、半年の後には得意は二百軒に増加した。これでいささかの希望の曙光を認め得たので俥挽きを廃業して油売り専門となり、満一ヶ年目には三百戸となり、数年目の今日五百軒に達したので、今は小僧を雇いて共に得意廻わりをなし、妻は店を担当して、夫婦共稼ぎに精々働いた結果、資本裕かになり、生活も楽になったとのことである。そして彼は得意先一軒ものこさず毎日御用伺いに行くのであった。自分はこれを見て御用伺いを隔日にすればよほど手数が省けて好都合であろうと思ったことであったが、彼の得意筋は石油五合一升と買いおきの出来る余裕のある家ではなく、その日暮しの日雇稼ぎ人か工場通いの労働者などを相手の商売であったのだから、ぜひ毎日毎日時間を決めて廻わり、夜の間に合わすのでなければ不便を与える。そうして便宜をはかるのでなければ得意を失う。それゆえ毎日かけ廻って御用をきくということであった。はじめ彼が資本として残しておいた二十円の金には死すとも手はつけまいと決心してこれを実行した。その覚悟と精励刻苦、ついには彼は志を貫いたのである。自分はこの油屋に敬服し、その経験談はいつも我が弱き心を刺激し発奮せしめるのである。かくの如く我が好模範は大厦《たいか》[#ルビの「たいか」は底本では「たろか」]高楼に枕を高くしている大事業家ではなく、心なき人の足下に蹂躙せらるる野末の花に等しい名もなき小売人の中にこそ我が学ぶべき師はあるものと信ずる。

    大商店に奉公せんよりは小さき店を選べ

 我邦屈指の大商店の番頭は、その店へ通勤するのに人力車をもって送迎されたと聞いているが、この人独立で同業を開店し、大いに日頃の敏腕を自分の商店において縦横に振わんとしたが、開業後間もなく閉店することになった。有名な大商店の番頭ともいわれる大技量ある人が、何故一小店の店主として成功しなかったかと、自分も一度は不思議に思ったのであるが、忽下の如き解釈がついた(もっとも失敗には種々の原因はあるが)。大商店として
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