ある。一年半年はなはだしいのは一二ヶ月くらいで他へ譲り渡してしまうのである。これらの人々は大概田舎から田畑を売って幾何かの金を持ち来り、ことごとくかかる不馴れの仕事のために消費し尽くして、どこへか影をかくしてしまう。実にこの下宿屋営業の急激なる変化は悲惨なものである。
しかしながら、もし田舎出の素人がこの業を成さんと思うならば、これは妻君の内職として、家賃を働き出すくらいの望みをもってしなければならぬ。主人は給金取りか何か別に確実なる生活の道を立て、そして女中もおかず、妻君自ら客の膳の上げ下ろしをするつもりで、数人の下宿人をおくほどの家を借り、またやり方が巧みならば、それは必ず成功するであろう。如何なる[#「如何なる」は底本では「加何なる」]事業も、腕次第のもので、失敗するも成功するもその人の技術の如何にあるのであるが、まず誰にも出来そうな仕業は従って利益もまず薄いものであることを思わねばならない。
二、文房具屋
これまた素人の仕事としてよく歓迎せらるる商売である。資本も二三百円くらいから、どうやら店を開かれる。また小綺麗な商売であるから、書生上りの人などがよく取りつく商売である。場所は誰も知る如く学校の側と定まっている。不便な場所の店ならば、文房具ばかりでなく、学生の必要品いっさいを売るのがよろしい。これ自分の利益ばかりでなく、学生に対しても非常に便宜となるからである。すなわち行李、靴、教科書、その他書籍、雑誌類、絵葉書、パン類いっさいを売るのである。
しかしこれまたきわめて薄利のもので、筆一本から三四厘の儲けがあるばかりで、半紙の如きは上から順々に丁寧に取って売らなければ汚れや皺をこしらえて、売物にならなくなる。雇人の小僧や下女に任せておくことの出来ないのもそのためである。やはり妻君の内職として、自らその店の整理に骨を折らなければ、とうてい人任せにして成り立つものではない。
三、ミルクホール
これは商人や職工を相手の商売でないから、ぜひ学生官吏等の淵叢地に店を開かねばならぬ。すなわち神田区本郷区などの最も多くの学生の集る場所で、その内でも大学、高等学校の付近が最上の場所としてあるけれども、店に来る得意ばかりで経済の立つ店は甚だ稀れであって、多くは主人自ら朝夕配達をなし、妻君は内に在って店番するのが常である。店では普通の牛乳ばかりでなく、コーヒー、ココア、洋菓子、食パンも添えて客に出すのであるが、いったいミルクホールというのは至極手間のかからない、簡便な弁当代りのものを認めるところであるから、昼食と夕食時刻の前後には、あいている椅子のないほど客が充満して、数人の人手を要してなかなか忙しいが、その時刻以外には、店番の必要はないくらい、客足が遠くなって手持無沙汰のことがある。この忙しい時の助力がことごとく雇人でもあれば非常に不経済になる。前後の閑な[#「閑な」は底本では「閉な」]時にもこれらの雇人の手を遊ばしておき、そして給金を払わなければならないのであるから、その時間を利用して、牛乳の配達を兼ねざれば経済が立たぬ。一合のミルク普通四銭を定価とし、平均店と配達とにて一日二斗内外の牛乳を売れば家族の数人の生活費は得られるであろう。但しこの商売ほど同業者多くして、競争の激烈なものは他に比較を見ないところであって、彼らは一度得た得意を逃さないためには、巣鴨の如き僻陬の地から、浅草深川の如きとび離れた場所へも喜んで配達するのである。そのくらい勉強をしなければ得意は取られてしまうからである。ある牛乳屋は自分で牧場を持ちながら自ら搾乳と配達をしているが、毎日東京市中を十里ずつかけ歩くという実話をした。創業の際などはこれほど勉強しなければ競争場裡に立って行けないのである。牛乳配達の回数はおおむね午前午後と二回であって、午前は朝三時頃から始め、午後の配達は二時頃から配らなければならぬ。得意は滋養物として規則正しく飲用する人が多いから、ぜひ食事前に間に合うよう配達せねば、直ぐ他の勉強家に得意を奪われてしまう。
次に牛乳屋は甚だ手数のかかるものであることも、予め覚悟しなければならぬ。牛乳は甚だ腐敗の早いもので、少しも油断は出来ぬゆえに、牛乳が牧場から運搬されるたびごとに、親切に入念に消毒法を行わねばならない。ことに夏期は一度消毒した牛乳を絶えず冷水につけておくこと、用器や空瓶も丁寧に消毒することなどなかなか苦心を要するものである。洗いようが粗末であれば、牛乳がいくら新鮮でも腐敗するのが早くなる。一度腐敗した牛乳を知らずに配達したら最後、たちまち信用を欠いて即日お断りを受ける。しかし普通のミルクホールを開店するには、椅子[#「椅子」は底本では「綺子」]テーブルから菓子皿コップ、室内の装飾等のために、三百円内外かければ
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