報酬に由って自ら生活して行くだけの順序方法を書いたものに過ぎない。吾人は損することを誇りとするものではないが、金を貯えることをもって唯一の理想とすべきものとは信じない。たとい多大の財産を有する者でも、一つの為す事なく、うかうかとこの世を渡るべきものでないことを主張するに過ぎないのである。

  田舎人が東京へ来て失敗する理由

    一、普通の商家の内幕を知らず

 第一に田舎出の人々は、東京普通の内幕が十分に判らないのである。東京の普通の商家では、単に商業上の収入のみで一家の家計を立つることの出来ているものは、十中一二に過ぎない。他の八九は各々副収入によってその不足を補っている。すなわちあるいはその妻が商売の方を担任し、亭主は他に出勤してその月給によってこれを補っているとか、あるいは土地家屋を有してその収入で家計の一部を助くるとか、あるいは金貸しをするとか、ある者は周旋屋で、その手間手数料で家計を補うとか、ことに最も多いのは手内職である。例えば靴屋、指物屋、仕立屋等の多くは、その仕事を職工兼工店という方法で家計を立てている。というのは自分で仕上げたものを、内で売り、問屋にも出すという方法である。概して東京の商家はかような方法で、辛うじて経済を立てることが出来るのであるが、この事情に気がつかず、商売のみで楽に家計が立つように早合点して、数百千円の資本を抱いて来るのである。その結果は、月々に生計費のために追い倒されて、終には商を閉じなくてはならぬ始末に立ち至るのである。ゆえに信用を博して顧客を拡むるまで、すなわち一二年の維持の出来るだけの資本を準備しているものか、または職業の手腕を持っている者ならば、まずとやかくと立ち行く方法を講じられようが、少ない資本をもって妻子を伴れて東京に出て来る、やっと店を開いて右より左に商売の売上げ高で一家を支えて行こうとする者はきわめて危険である。多くの失敗を招く人々は、この事情に対する準備がなくて、地方の生活と同様の考えをもって胸算用を立てている人々である。

    二、開店場所の選択を誤るに在る

 すでに多少の資本を抱いて地方より出て来た人が、いよいよ商店を開こうとするに当って、まず場所の選択について見当を誤まることが多い。これがそもそも失敗に陥るべき根源である。いったい如何なる場所に開店すべきかということは、当人の資本の多寡と商売の性質とを考え合わさなくてはならぬ。普通の人がこの関係については充分の注意を払わないで、単に通行の多い賑った町で、しかもなるべく家賃の安い家というような考えをもって貸家を探している。またたとえ多少は場所の選定について研究する者はあっても、地方の考えが頭脳を去らないがために、その見当を誤まることが多い。商売が繁昌するか、失敗に終るかということは、全く場所次第である。ゆえにもし不適当なる場所に資本をおろしたならば、もはや取り返しはつかないのである。
 場所の選定について注意すべきだいたいの所をいえば、近来電車が開通して交通の便のよくなった結果、東京の商業の中心が一部に固まって来た。今まで十五区に各中心があって、いずれも繁昌していたのが、今や本当の中心は日本橋京橋へ集中して、各区の中心地は小中心の有様となって来た。この中心というものは、豪商富家が多数集合して、多年の信用を保っている所であるから、最も顧客を絶えず惹きつけている。ゆえに大いに為さんとするならばこの中心地に踏み込んで開店するのが最も得策であるが、しかし新出の者が十分の声価をあげて相当顧客を引きつけるまでには、少なくとも隣家に見劣りせぬだけの装飾仕入が出来て、二三年間は維持し得る資本がなくてはならぬ。だから中心地で始むるか、小中心で始むるか、また場末で開店するかということは、いっさい資本の問題である。もし少ない資本のものならば、将来有望と思われる場末の地で、その隣家に立ち勝った店を開くが上策である。しかればその地での第一流の繁昌店たることが出来る。資本に不相当なる場所に高い家賃を払って、みすぼらしい店を開いているようでは、とうてい繁昌の見込みが立たぬ。

    三、地方と都会との差別を知らざるにあり

 商売の性質と場所とを知ることが大切である。すなわちその地には如何なる種類の人が多く集っているか、また如何なる商品が最も適当であるかについて、十分に踏査し、鑑定をつけることを誤まってはならぬ。概して地方相手の卸業ならば日本橋がよろしいし、新奇な舶来品ハイカラ好みの商品ならば、京橋就中銀座辺また本郷神田の賑った通りに開店すべし、本所深川ならば職工向きの商売が適しているし、牛込本郷の一般では学生を相手の中心とすべきである。概して言えば同業者の多い所を見定めて開店するのがよろしい。それは田舎では同業者のない飛び抜け
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