人が恥かしいと云って、自国の服装を卑下するのは大変な心得違いだと思います。
これはちょっと人様の悪口を云うようですが、以前井上という代議士の主催で、南洋貿易視察のために、オランダ領の南洋に行く団体を募集したことがありました。その時、私も妻も共に参加申込みましたのですが、「オランダ領地へ行くのだから洋服にしてくれ」との事だったので「外国から日本に商業視察に来る人は、皆日本服を着て来ますか」ときいてみたところ「そんな理屈は云わないで洋服にして下さい」とのことでありましたので、私どもはついに参加を断りました。家内などは西洋人にくらべると体は小さいし恰好は悪い、日本の絹の着物でも着ていったらどうやら西洋人にひけ[#「ひけ」に傍点]もとらないと思いますが、不恰好な洋服を着て、慣れない靴をはいて、ヨチヨチ歩いたらそれこそ国辱になるじゃないか、と考えたからでありました。代議士ほどの方でもこんな間違った考えを持って居られる方のあるのを残念に思いました。
とにかく、ただ見物に行くとか、招待された時などは日本服が好都合で、履物はコルク裏の草履を用いましたが、半靴を用いてもよいかと思います。
商人は一国の主人同様
最後に申し述べたいのは彼の国における商人の地位についてであります。
日本では昔から士農工商といって商人を最も低き階級として社会的に軽視する傾きがあるので、温泉場などへ遊びに行った際など、何々商と記さずにかえって無職などと記すのを見るくらいで、また立派な商人も資産が出来るとたちまち今までの商業を捨てて無職の資産家となって隠れることなどは実に国家のためにも憂うべきことであります。
西洋では商人は非常に尊敬され、イギリス[#「イギリス」は底本では「イぎリス」]においてはマーチャント・プリンス(商売王)という言葉があるほどで、社会的に重んぜられていることは驚くのほかありません。英国は商をもって立つ国で、その大海軍も商権保護のために造られ、またかの世界大戦も商権をおびやかさんとする独逸を圧するがためでありました。
商人は一国の主人同様にて大臣の如きはその番頭の如く見られるほどで、これはひとりイギリス[#「イギリス」は底本では「イぎリス」]のみに限ったことでなく、ドイツ等においても同様で、私の如き者も商人であるがために至るところにおいて意外の厚遇に接し恐縮したことがたびたびありました。
日本の貿易商である中村祥太郎氏の如きは、我が国の貿易に貢献少なからざる方で、欧州においては非常に尊敬され、かつてロシア皇帝、フランス大統領、ベルギー皇帝より各々勲章を受領したほどであるのに、本国の日本からは何らの賞をも授けられていないのであります。
西洋と日本とは商人を遇するのにかくの如き相違があります。西洋では尊敬されるがゆえに人材は多く商業に集り、今日の如き富強を致したものと思われます。
しかるに日本では「この子は学問が不出来で、末の見込がありませんから商業でもさせたいと思います」という言葉を、私なども小店員の採用に際してたびたび聞きましたが、何とも残念に思っております。こんな具合ですから一般に、商人に人材が少なく、人材識見のすべてが他に劣って居る有様で、ますますその地位を低めて居ることを、認めざるを得ない事を遺憾に思います。
今後我々商人は大いに自重し、商人は一国の主人であると云われるように、その地位の向上をはかると同時に、眼を世界の商業に向けて、外国におくれをとらぬようにすることが、自他のため、また国家のためであると思います。
小売店経営の実際
明治三十四年、書生上がりの我ら夫婦、本郷帝国大学正門前にパン屋開業、書生パン屋の名四方に広まるにつけ、地方より出て東京にて商売を営まんとする人の相談や問い合せが殺到し、一々返答を認めるの煩に堪えず。すなわち夫婦共著にて「田舎人の見たる東京の商業」を出版し、回答代りに贈呈したものであって、今や手元に一冊を止むるのみ、もとより数十年前の旧著なれども、我らの観る処今日においても甚しき径庭なく、小売店経営の参考には最も適切なりと信ずるとともに、鶏肋自ら棄てがたきものあるをもって採録することにした。
序
本書は決して金持になる秘決を説いたものではない。また我々は田舎出のしかも書生なりであって、いまだ研究の浅きものであるから、東京の実業界の真相を穿ったものだということも出来ない。ただ自ら実験してこの目に触れた所の範囲内においていささか心付いたことを書いただけのことである、ゆえにきわめて眼界の狭いものであることをあらかじめ御断りしなければならない。要するに良心に恥じず、独立独行誰の干渉をも受けずして、ただ自らの手足を働かせ、額に汗してもって得た所のいわゆる労働に対する相当の
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