は信州で以前汽車の通じていなかった頃は新しい海の魚を食べることが出来ず、半ば腐敗した臭い魚を食べて、これが海の魚の風味だと信じていたくらいであった。つまりロンドン人も臭いクリーム菓子を食べてこれがクリーム菓子の真の味だと心得て居たのかと思う。ただし自国産のクリームもあるが、これはデンマーク産よりも五割も高いので第一流の菓子店でなければ用いなかった。従って一流菓子店の菓子は高い訳である。
バターも七十七度の温度では四日もすぎると腐敗を始めるが、清涼の所にさえ置けば多少永く保存がきくので、クリームほどのことはなかった。
しかし東京の人達も、あたかもロンドン人が腐敗しかけたクリームを食べて、これが真のクリームの味だと心得て居るように、四五ヶ月もすぎた舶来の古びたバターを国産品よりも高価に購求していて「舶来品は香気が高い」などと感心している。
欧米崇拝もこうまでなると滑稽で、臭気を香気と解してオーストリヤやカナダの不良になりかけたバターを高い代価を払って買っているのである。考えなくてはならないことである。日本郵船の欧州航路の船なども、デンマーク製のバターをロンドンで高価に買入れ、それを日本に帰航する時にだけ使用するならまだよいとしても、さらに日本から[#「日本から」は底本では「日本か」]欧州へ向う時の分までロンドンで用意したのは、あまりに馬鹿馬鹿しいのに驚いた。私は自分の乗った船の事務長に話したら、私の説明が分り、この次から国産品を使うと語った。
デンマークの農業
デンマークの農業が世界一であり、農業の経営についても優良であるということについて意見を言えば、日本の農村は行き詰まっていることは同感である。我が国の農家の経済がうまく行かず、従って地方の青年達が都会を指して来るということは憂うべき事と思う。
しかしデンマークは牧畜を主とする国であって、国産のクリームや、バターをロンドンに輪出して国の経済を立てている国である。
クリームやバターは欧米人の日常生活には欠くことの出来ないものであり、その唯一の顧客がロンドンであり、ロンドンは富力第一、人口世界一という理想的な消費場であり、しかも一昼夜半で到着する位置にあるので、デンマークの産する莫大な乳製品を完全に消化した。
これは他国の真似の出来ないことである。日本は米作と養蚕を主とする国であり、バターやクリームを生活の必需品としない国であるから、デンマークを真似て牧畜をのみ奨励するということは出来ない。もしデンマークを真似て牧畜を盛んにしたならば、たちまち製品の販路に窮し、かえって農家の経済を乱すことになると思う。それよりもむしろ東京という都会に接する近在の農村では、東京で消化し得る果物、蔬菜《そさい》、その他生魚等の生産をはかる方が有利であろうと思う。
まずかったフランスのパン
世界で美味なものは日本の米とフランスのパンということであるが、自分の店でつくっているフランスパンはフランスのパンの焼き方を真似たもので、本場のパリへ行ってフランスのパンを試食することは欧州へ行ったときのたのしみであり、場合によったら店の優秀な職人を実地見学のために留学させる下準備までしていた。
しかるに巴里《パリ》一流ホテルのパンも、料理屋のパンも第一色が黒く、味も悪く、粗悪だったので、「有名な巴里のパンも中村屋のパンに劣ること数等だ」とうっかり同行の人々の前で口を辷らしたので、大勢の人々から「それ手前味噌が始まった」と笑われた。私は非常に残念に思ったが、中村屋のパンを取り寄せることは出来ないので、強く主張もせずに居たところ、一行中の須川氏という九大の教授一人だけ、東京で常に所々のパンを試食して居て「たしかに中村屋のパンや小石川関口のパンの方がうまい」と賛成された。
そういうことのあった翌日、一同連れ立って有名なエスカルゴー料理という蝸牛の料理を食べに行ったとき、その店で出したパンは実に色も白く美味なものであったので、今まで食べていたパンが有名なフランスパンなるものでないことが分った。
その後パンの粗悪なことについてフランス人に話したところ、
「パンの悪いことはもっともです。欧州大戦前までは巴里のパンは世界的に有名なものであったが、戦後政府は一般国民の生活を安易にするために、パンの価格を一定して、一キログラム(当時の日本価二十銭)二・二フランに限定したので、パン製造家は優良品を製造することが出来ず、従って粗悪なパンを造っているので、戦前のパンに比較するととても粗悪であるが、戦時中のパンよりは上等である」という説明であった。そこで中村屋のパンはフランスのパンより上等であり、上等なフランスパンにも決して劣らないとの確信を得た。
和気あいあいが信条
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