ず二千円くらいの予算であった。ところがオホッキーは四千円くれという。
「自分は世界のどの技師にも劣らない自信がある。だから四千円でなければいやだ。鐚《びた》一文でも欠けるならたとい自分は餓死するとも雇われない」
というから、私は大奮発して要求通りの契約をした。
ところがいよいよ仕事をさして見ると、予期以上だったので驚いた。彼はすべてのことに通じて居るのみならず、絶対に物を粗末にしない。紙一枚、小布一片といえども貴重品の如く大切にする。例えばチョコレート製造の際に使用するハトロン紙などでも、擦り切れてほとんど使用に堪えなくなるまで、何回でも繰返し繰返し使用する。またチョコレートや砂糖を紙でしぼって、飾り菓子を造る時に、従来の職人だと、しぼった後のチョコレートや砂糖のいっぱいついた紙は、そのまま芥溜に捨ててかえりみなかったものであるが、オホッキーは粉をかけて奇麗に拭い取り、全くの白紙にしてからでないと捨てない。
また、彼は工場の清潔と神聖とを保つために、他人の工場に入ることを絶対に許さなかった。就業中は主人といえどもみだりに許さない。そして彼の仕事振りはというと、また如何にも厳格であった。朝七時から午後五時までの勤務時間中は、煙草一服も吸わず、冗談一つ言わない真剣さであった。彼はその頃もはや五十三歳であったが、謹厳なる態度とその緊張した行動には感嘆せずにはおられなかった。もし職工が機械を乱暴に扱ったり、仕事に忠実熱心でなかった場合には、たちまち百雷のような声で怒鳴りつけるので、職工達はふるえ上ったものだった。しかしその怒りは仕事の上での怒りであって、少しも私心がなかったから、職人達は喜んで彼の命に従っていた。
工場長である彼の心掛けがこういう風であったから、彼の下に働いた職人は彼の感化を受け、彼が来てからは物事がすべて整頓され、工場は見違えるばかりに綺麗な清浄なものとなった。そればかりではなかった。彼が技術以外に持っていたある崇高な精神が他の店員達によい影響を与えたことであった。
また彼は非常に器用な男で、従来の職人は自分の専門の技術については相当の知識もあり経験もあるが、技術以外のことになると、たとえ自分の仕事に密接な関係のあることであっても出来ないから、他の専門家に依頼しなくてはならない。たとえばスイッチを直すために半日も休業しなければならないという醜態を演じたものだが、彼はそうでない。大工、鍛冶仕事から、工場の設計、経営上の計算まで、行くとして可ならざるはなし、でその蘊蓄《うんちく》も専門家に譲らぬほどだった。たいがいのことは彼一人で用が足せた、全く稀しい万能職人であった。
こういう有様であったから、高いと思った四千円の俸給も考えて見ると安かったのである。
生クリームとバター
自分は欧州へ行ったとき、倫敦《ロンドン》でライオンと云う有名なカフェーへ幾回も行った。そしてそのつどに必ず同店自製のクリームのついたケーキを試食したが、何故かいつも腐敗の気味があって甚だまずい。しかるにこのライオンはロンドン市だけでも数百軒の支店があり、中には一時に三千人の客を収容出来るという大きな店もあるほどで、相当の信用のある店であるにもかかわらず、コンナいかがわしい菓子を販売し、またロンドン人も平気でこれを食べているのは甚だ奇怪なことだと考えた。
そのおり英国に二十二年間も在留して居る小林という方が来られたので、この話をしたところ、「ライオンの売っているのは安物菓子で、評する価値はありません。ランプルメーヤーと云う菓子店なら、貴族や富豪を顧客にしているから品物も上等です」との話だったので、早速ランプルメーヤーに出かけて試食したところ、この店の菓子はクリームも新鮮で、味も非常にすぐれていた。しかし菓子の値段はおよそライオンの二倍の高値であった。
それでも店の繁昌している所を見ると、ロンドン人の舌も全く馬鹿にしたものではないと思ったが、それにしてもあの盛大なライオンが半腐敗のクリーム菓子を平気で売っており、またロンドン人の多数が平気で食べている理由がちょっと分らなかった。
ところがその後欧州諸国を巡遊してデンマーク国に行き、同国の農業と乳製品の事を調べて、はじめてロンドンの菓子のまずい原因が分った。
すなわちロンドン人の食べるクリームとかバターは、デンマーク国から供給されて居るもので、デンマーク国の乳製品はロンドンに到着するのに一昼夜半かかるのであった。
生クリームは七十七度の温度で一昼夜しか保証できないほど腐敗し易いものであるから、ロンドンに到着して菓子に製造される時は、半腐敗の状態になっているのは当然のことである。半腐敗のクリームをロンドン人が食べているということは不思議のようであるが、例えて言えば、自分の生国
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