にすすめるとか、価の知られていない物に対して高い値段をつけて儲けるとか、そういうことをしているとでもすれば、その場合店員を不幸罪に陥れたものはその店主自身であるとしなければなるまい。まして世間に往々あるように無理な経費節減として、あまり粗食で少年を我慢させ、乏しい思いをさせるなどということがあったとすれば、店員の罪はむしろ店主が負わねばならぬものであろう。
 店主が公明正大な商売をして居れば、そういう不心得な店員を出すことも少ないのであって、もしも店員に罪を犯すものがあれば、如何なる事情にもせよ、店主は己れの不徳の致すところとして深く反省し、店員のみを責めるような処置は決してとってはならないのである。

    店員の独立の約束はできぬ

 私の店には二百十九人の店員が居るが、これらの貴重な青春を捧げて快く主家のために尽してくれる店員にどうして酬いたらよいか、将来の保証をどうしたらよいかということは、我々店主として大いに考えなければならない問題である。
 御承知の通り時勢も昔とはだいぶ違って来た。例えば交通機関の発達という一つを取上げてみるにしても、ここ新宿に店を持っていて、電話一本でもって市中は言うに及ばず、郊外までも自転車あるいは自動車で迅速に御注文を果すことが出来る。これはどういうことかというと、同一な特長を持った店の対立は許されないということが考えられ、すなわち支店や分店は必要でない――のれん[#「のれん」に傍点]を分ける余地は現在ではもはやないということなのである。この点は店主たる人のよく心得ておかねばならぬことであると思う。
 昔は相当の年期さえ奉公すればのれん[#「のれん」に傍点]が分けてもらえた。そして店員達はそれを目当にせいぜい[#「せいぜい」に傍点]小遣銭ぐらいの待遇で、冷めしを食べても満足して働いたものである。
 ところが現在ではそののれん[#「のれん」に傍点]分けが出来ない。私は始終店員にこう語って聞かせている。「前に述べたような状態であるから、店として独立を約束することは出来ない。ただ待遇だけは出来るだけよくする。相当な月給で、相当な紳士として待遇するから、居たいなら何時までも永く続けていてもかまわない。また、月々の給料の中から出来るだけ貯えておき、将来いい機会さえあれば独立する。これは大いに望ましい。その時は店主としても好意的援助は惜しまぬつもりだ」と、これが私の常に抱いている気持なので、私達の若い時代のことを思い浮べ、青年時代の野心はできる限り満足させてやりたいと思い、せいぜい独立する考えを持つようにと勇気づけて居るので、結局その方が励みもつき、貯金もするし、成績もいいようである。

    退店は拒まない

 またこれもやはり時代のせいであろうか、昔風のいわゆるカケヒキ「損と元値で蔵を建て」式なインチキな販売法は今は流行らない。相当の知識を持った紳士的商売術で、別に奇術を弄さずとも相当のところまで行けるであろう。人間が正直で、手職に常識に販売に経営に私の店の販売台で相当年期をいれれば、その内には商売の原則も判るし、時代に順応してゆくコツも判るし、人格を重んじ、自己の使命を忠実に尽し、ことに人扱いなどということもよい体験が出来るから、長い間にはモノになると教え、実力において相当な時代的商人として世が渡れるように、努めて教育を与えているのである。
 長く勤める店員に対して、恩給を与えてはどうかということも問題ではあるが、これは考えものであると思う。例えばある官庁などのように十年、十五年とだんだん恩給を増す式を、我が店員の場合に当てはめて見ると、明らかに彼らの気持を退嬰的にすることは事実である。店員はこの恩給を棒にふるのもなんだからと、恩給を逃さぬようにとばかり考えて、独立の機会を逸する事となりがちでありまた店主の方にすれば、あたら一個の男子を飼殺しにする結果になる。これは、前にも述べたように常に機会ある毎に独立するような心持で居て、貯金もせよ、遠慮なく店を退けという、恬淡たる態度でいるに如かずである。若い者にはそれ相当の夢もあり希望もあるのであるから、それを助長し、努力させて行った方が幸福ではなかろうか。
 その代り、どんな優秀な、店にとっては貴重な店員にあっても、退店を申し出た場合にあってはあえて引止策は講じないことにしている。これは本人のためであると同時に店にとっても必要である。これを引止めたり延期を求めたりすれば、それは店員に慢心を起こさせて彼等を増長させるおそれがあるからである。

    人格的人物の養成

 昔は店の小僧と云えば一人前の人間でないとされて居た。主人がいなければ怠け出し、つまみ食いする。油断すれば銭箱をごまかす、とかく横着な代物のように考えられていたのは事実である。現代とも
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