の記者は神経衰弱に罹りました。私は社長に向かい、あまり過度に働かせた故だと責めますと、竹沢氏は意外な面持ちで、「彼は僕の三分の一くらいより働かないのに、過労などとは解せられませんね」と、それでも医師は過労より来た神経衰弱と診断しました。こんなふうに非凡の自身と普通人との相違を忘れては人を使用することは出来ません。多勢の中にはその非凡な者もいるとしても、やはり多人数を使う場合は、その標準を普通人におくべきであると思います。

    店員に規則は無用なり

 多勢の店員を使うのはさぞ骨が折れることだろう。一つその使い方を話して見ろとは、いつも人からいわれることだが、私には別に人の使い方というものはない。無論「こうしろ」とか「ああしろ」とかいう規則は拵えない。形式的にいくら箇条を並べたところで、守らなければそれまでだし、またその規則に触れた者があったとして、私の眼が必ずそれにとどくとは言えない。すると、その規則は無意味になるばかりでなく、かえって「破っていいのなら」とわるい影響を及ぼす。
 賞罰ということになるとさらにむずかしい。これも若い頃の失敗を話すことになるが、私がまだ本郷にいた時分、眼に見えてよく働く店員がいたので、銀時計をやって表彰した。すると同期の店員から思いがけなく、自分達も一生懸命働いていたのにあの人ばかり表彰された、という不平の声が洩れて来た。私は「しまった」と思った。なるほどもっともだ。庭の桜の桜としての美しさのみに見惚れて、同じ庭の松の存在を忘れていた。目立つ人間と目立たない人間とそれぞれの持ち前に従って本分を尽しているのだ。これは自分の眼が足りなかったと考えて、今に私はこの失敗を深く肝に銘じている。
 また、私の店の金銭登録器《レジスター》は一日に六千回も記録する。ところが会計係の報告によると、日によって、記録された金額と、実際抽出しの中の金額では、二三十銭から一円五十銭くらい違っていることがある。たいがい現金の方が多いものだ。「器械の方ですといくらいくらですが、現金ではこれだけです」と報告して来る。私は報告されるままに、多い場合も少ない場合も受取っていた。ところがある日知人を訪ね、お互いに仕事の上の話で、私が仕事というものは、万全を期してやっても、それが万点の成績を持つというわけにはなかなか行かないものだといって、金銭登録器の記録の現金とがなかなか合いにくいことを話すと、その家の金銭登録器も毎日ちょうど私の方のと同じくらい記録するのであったが、知人は「そんなことはない、うちでは日に何千万の出入りがあっても、器械の記録と実際と違うなんてそんなことは断じてない」という。しかし私は店の会計係を信じているので「違うこともある」と主張した。すると奥さんが妙な顔をして「そう言われればおかしいことがあった」といって次のことを話し出した。奥さんがある日外出するので、店の会計係に懐中の五円紙弊を一枚出して両替させた。あとで気がついて見ると銀貨は六円になっていた。これはわるいことをしたさぞ勘定が合わなくて困ることだろう。と奥さんは心配したが、その日のうちには通じる機会もなくて翌日になった。奥さんが会計係のところへ行って「昨日は勘定が合わないで困ったろう」というと、会計係は「いいえ、大丈夫違えるものですか」と言ったという。無論前の晩主人のところへ持って来たその日の勘定は、記録された金額と現金とちゃんと合っていた。その会計係は、間違って多い時は着服し、少ない時はその中から足して、器械の記録金額に合わせていたのである。
 私は私の会計係の毎日ありのままな報告をどんなに喜んでいるか知れない。
 私は店員を信じる。しかし信ずるということが私の不精の結果でない事を言いたい。私の店では毎年高等小学卒業生を二十三名採用する。そうしてこれを育てて行くのだ。まず百人くらいの志望者が集って来るが、これを厳密に選考する。学科、体格の試験はもちろんだけれども正直試験といって、家庭の事情、本人の趣味とか愛読書、入店志望の理由等詳細に正直に書かせる。
 こうして入店した少年諸君は全部寄宿舎に収容する。少年組の寄宿舎には、三松俊平氏が父として、あるいは先生として監督している。三松氏は基督教牧師として有名なりし植村正久先生の高弟で、(しかし宗教的には店員には全然干渉しない)その人格に信頼して、私は百人からの少年諸君の修養をお願いしている。ある時地方から来た少年に、寝小便の癖のあるものがあった。三松夫妻の努力でいつの間にか癒った。私はこの話を最近まで知らなかった。それは、早いうちに私の耳に入って「そんな子供は困る。帰したらどうだ」とでも言うようなことがあってはと、恐れたものであろう。一事が万事この調子で少年諸君の親となってくれていた。少年組は三カ年後は青年組の
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