僅かの事ではありますが、店員の家庭の上には、多大の喜びをもたらしたのであります。

    配当

 我々菓子業界においては、商売柄四月は非常に忙しく、八月は反対に閑散であります。しかるに店員の俸給は一定されて居りますから、菓子屋の主人は夏時、半日程の仕事もない日には、知らず識らず、顔に暗い影の容すこともあり勝ちであります。すると店員や職人等はその主人の顔色を読んで、午前中に片付く仕事でも三時頃まで引延ばすという悪い癖がつけられるのであります。
 私はこの悪習慣をぜひ改むるの必要ありと考えまして、閑な時は如何に早仕舞しても結構という事にしまして別に配当の新法を始めました。その方法は、従来の日俸の三割くらいを減じ、その代りに店の売上金の百分の三を一同に配当する事に致しました。その結果は予想以上によろしく、閑な時は早仕舞が出来るので喜び、忙しい時は配当が俸給額を超加することもあるので、むしろ忙しさを歓迎するようになりました。

    福袋

 私の店では日曜や大祭日には、平日より約三割くらいの売上増加を見るのが通例であります。そこでこの日には店員一同に、それだけ余計に働いて貰わねばならないのでありますから、私はこの労に酬いるため福袋を頒つ事に致しました。その方法は平日の売上高の二割増を境として、この福袋線を超加した日を福袋デーと定め、当日の売上高の二分を分配する事に致しました。毎年四月とか年末の如き忙しい季節には、福袋が隔日ぐらいに配られまして俸給の半額くらいに達します。従って店員は売上が福袋線を超えるや否や、非常な興味を持ちまして、たやすく突破して仕舞うのであります。かくの如く能率というものは、真剣にやるのと御義理にやるのとでは、たいへんな差の出来るものでありまして、こうした心遣いが店員の能率に予想以上の大影響ある事を経験させられました。

    人格と教養

 家持手当、夕食手当、配当、福袋等の注意を致しましたものの、これらは末節に属する事でありまして、さらに一歩を進めた根本問題は人格尊重と、智徳教養の二点であると思うのであります。これはなかなか困難な事でありまして、いまだ私の理想だけで実行とまでは参って居りませんが、その第一歩として、食事などは中流以上を標準とし、店主も店員も、職長も弟子も、ことごとく平等にし、また全店員の誕生日をもいっさい平等に祝い、観劇、角力、海水浴等人の喜ぶことはことごとく一等席を与えてこれを観覧せしめ、他を羨むことの無いように致して居ります。また毎月一回講話会を催しまして、苦節よく一家をなしたる知名の大先輩に御願いして、その経験を伺い併せて目の当りその人格に接し、無形の感化を受けるように致して居ります。
 さてここに人事が遺憾なく行われ、能率も上り、品格ある人物が集りましても、もしもその経営よろしきを得なかったならば、まだまだ安心と云う事は出来ないのであります。随分繁昌する商店にして往々にして破産閉店するもののあるのは、多くこの経営の不合理に原因するのであります。

    仕入

 経営の第一要点は仕入であります。品質、値段、季節、産地等、その間の事情をくわしく調査した上で仕入れるのはもちろんでありますが、問屋を相手とする場合とても、御得意に対すると同様に、親切をもって終始する心掛が最も必要であります。
 ある人は、「仕入の代金は月末に支払わないで翌月の五日払いとすべし。しからば五日分の金利を利する事になり、これを十年、二十年と続ける時は、莫大の金高に上がる」と云われましたが、私はこれと全く反対の事を皆様に御奨め致します。
 仕入は現金買を主義として、月末払いの場合にも決して翌月に持越してはなりません。些少の金利を目当に支払を延期するとか、問屋の足下につけ込んで値切り倒しなどをして、これを称して商売かけ引の上手のように考える人がありますが、これはとんでもない誤りであります。支払いを延して問屋や荷主に不便と不安を与えるほど不得策なことはありません。必ずその仕入は割高となりまして大量購入の百貨店に対抗する事が出来なくなります。百貨店は多く先付の約手で仕入を致して居りますので、現金仕入なれば百貨店より格安の仕入が出来るのであります。

    材料の精選

 すべて何品によらず、その原料がよろしくなければ、その製品の佳良を望む事は出来ません。ここに一例を申しますと、鶏卵でありますが、在来の鶏は一年間に七八十個の玉子より産みませんが、今日行わるる改良種は平均百八十個産みます。ところが一利一害は免れぬものでありまして産卵の少ない在来種の玉子は滋養分も多く、味もはるかに勝り、黄味は実に濃厚であります。それゆえ、彼の有名な長崎カステラでは改良種の玉子を避けて、上海の在来の種卵のみを用いて居ります。私の店でもこ
前へ 次へ
全83ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 愛蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング