でありますが、これが旧思想の商人の大なる欠点でありまして、今日一般の信用を失うた原因もここにあると思うのであります。
しかるに正札主義の真髄を解せず、「正札主義などは誰にでも出来る。我輩は今日からでもやって見せる」という人があるかも知れませんが、これはさように手軽に出来るものではありません。
正札主義とは、いったん定めた値段をただ頑固に値引しないというだけではありません。その経営においてあるいはまた商品の選択において、最善の努力と研究を致しまして、良品をあくまでも廉価に提供し、御得意に対し満腔の誠意をもって販売する事であります。例えば、私が一つの時計に三十円の正札を付けて売出した場合に、もしお客様が「お前のものと同じ品を、他店では二十五円で売っている」と云われて、その三十円が不当の値段でないにしても、他店で同じ品を二十五円に売っている場合は、正札主義の実行は出来難い事となります。ですから、正札主義をあくまで守り通すためには、品質、価格、双方ともに他店の追随を許さざるほどの研究と熱と意気とがなければならないのであります。
もしこの正札主義を完全に遂行する事が出来ましたならば、如何なる大百貨店といえども敢えて恐るるに足らずと断言してはばからないのであります。
ところが百貨店を攻撃したり、その欠点を指摘したりする人々の販売する商品が、百貨店に較べて品質が劣っていたり、または価格が高かったりしたのでは、お客の百貨店に集まるのは当然でありまして、その結果、自分の店が衰微したからといっても、百貨店を怨むべきではなく、自分自身をこそ憾むべきではなかろうかと思うのであります。
それでは正札主義の最大条件である、良品を安価に提供するには如何にすべきか、これを自分が今日まで実行してまいりました経験について申し上げてみましょう。
ひとり商売に限らず、事業の経営でも、一国の政治でも、結局は人間がするのでありますから、勝れた人物を多く集めて快よく働かせるのでなければうまく行くものではありません。商売上良品を廉価に提供するためにも、この点がきわめて重要でありますから、適切なる人事を行うということが第一に必要な事であります。
人事
もし主人が適切なる人事を行うことが出来なければ、使用人にたちまち不平が起り、盗みをするとか、なまけるとか、いろいろの不正の事が続出して、とうてい所期の目的を達することは出来ません。店の創業時代、夫婦だけ働いて居る頃には模範的の商店として、評判の良かったものが、大勢の人を使うようになってから、急に人気を失った店が少なくありませんが、皆この点において欠くる所があったからであります。
店の不統制、乱脈の責任は実に主人にあるのでありますから、主人なる者は常に虚心坦懐、人にはあくまで公平にして私なく、かつ懇切なるを絶対条件と致します。
俸給
第二は俸給の問題であります。沢山の俸給を与え、僅かしか働かないならば誰でも喜ぶものでありますが、そういうことをしては、良品を廉く売る事は出来ません。勢い他店との競争に負けることになります。俸給はだいたい世間並みに標準の下にあって、しかも一般以上の成績を挙げることを考究せねばなりません。
私は今より四十余年前、早稲田の学校で少しばかり経済学を学びました。その時の講師で後に東京高等商業学校の校長になられた松崎蔵之介先生のお話に「当時独逸は英国に較べて非常に貧乏で、官吏の俸給の如きも、英国の三分の一位より与える事が出来なかった。しかし妻帯するとか、子供が生れた時にはそれに対して相当の手当を与えるという親切なる注意があったために、独逸の官吏は英国の官吏に較べて、かえって成績が勝って居た」という事でありました。
なるほどこれは面白い事だと思いまして、これを自分の店にも応用して見ましたところ、大いに効果が挙りました。これは母校の賜と感謝して居る次第であります。
私の所の店員の俸給は、充分とは申せないのでありまして、三井、三菱では二三百円も与えて居るくらいの者に対して、ようやく五、六十円よりやって居りません。独身の間はこれでも充分で貯金まで致しますが、妻帯して一家を持ちますとこれでは足りませんから、別に家持手当として俸給の三割を与え、また子供が生れるとか、老人のある者には別の手当を与えます。これはかの独逸派を参酌したのであります。
夕食手当
私の所は食べ物を製造販売する店でありますから、店員はすべて朝も、昼も、夕方も皆店で食事をしてよい事になって居ります。これが習慣となって妻帯しても家庭で食事せず、やはり三食とも店でするのを見受けましたので、家持店員は夕食だけは必ず家に帰って家族と共に食事する義務ありと定め、その代り夕食手当を特に与えました。この取計いは
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