きの人物とならなくてはならない。
 この正札付きの人物にして初めて完全に正札の商売をして模範的商人となることが出来るのであります。

    小売商のみじめさ

 私は新宿中村屋の相馬愛蔵であります。話が至って下手でありますが、井上先生から、ただ自分のやって居ることを話してくれと云う事でありましたので伺った訳であります。
 私は今日の小売商の問題は、帰する所、百貨店対抗問題と考えて居ります。近年急激なる大発展を遂げました東京の百貨店も、その数と申せば僅かに十二、三でこれが市内十四万戸を算する小売商の総売上高の四割を占め、そのためこの小売商の中から、破産者もしくは閉店者を続出せしめて居るのでありますから、これが対抗策を考究することは、我々小売商の刻下の急務かと存じます。
 木村先生(増太郎博士)の御話では、百貨店は東京における総売上高の二割四分を占有して居るということでありますが、細密にこれを検討して、建築材料、石材、肥料等百貨店の取扱い得ざるものを除き、現在百貨店が販売している商品のみを採って比較対照しますと、実に総売上高の四割三分を占め、五割七分だけが十余万の小売商に残されているという誠に悲惨な有様であります。なかんずく、呉服類に至ってはその七割以上を百貨店が占めほとんど独占となってしまいました。
 かくの如く、百貨店は一般小商人にとっては実に恐るべき競争者でありますから、私は「どうかこれに負けない様に経営してみたい。如何にせば百貨店に匹敵するであろうか」と、このような気持で常に研究を致して居ります。
 昭和三年には、その調査のため欧州へもちょっと行ってまいりました。この旅行で少しく得るところもございまして、どうやら今日のところでは、私の店はどの百貨店にも負けないつもりであります。それで、「如何にして今日の結果を得たか」という点を手短かにお話してみたいと思います。

    信用

 小売商の第一に努むべき事は、御得意の信用を得るということであります。「そんなことは申さずとも当り前のことだ」と云われましょうが、今日までの商人の中には、「世間は広いから一生|騙《だま》しても、騙し切れるものではない」と云って、商売をなさる方も少なくありません。しかし不良品を売ったり、暴利を貪ったりしたならば、ただの一度であっても、たちまち御得意の信用は失われるものであります。

    正札主義

 しからば、御得意の信用を得るためには、如何なることが最も大切かと申しますれば、私は、「正札主義の販売法以外に道なし」と断言致します。
 今日百貨店が大なる信用を博してあの盛況をみますのも、その根本的最大原因は何かというと、正札販売において一日の長があったからであります。これは単に我が国のみではありません。米国の商店においても、以前はお客によって価の上下をしたものでありますが、今日は百貨店にリードされて、一般に正札販売になったと云うことであります。
 百貨店としては日本では三越が一番早く正札販売法を採用致しまして、その成績がすこぶる挙ったのをみて、次々に出来た百貨店が皆これに倣い、ついに今日の大をなす原因を築いたのであります。
 私の店も開業以来三十五ヶ年、この間を通じて全くの正札主義を実行して参りました。中村屋が今日御得意の信用を得ましたゆえんのものは、実にこの点に在りと確信して居る次第であります。
 しかるに、この正札販売によって大発展を遂げました百貨店が、最近同業者間の無茶な競争の結果から正札主義を破る者が出て参りまして、ある商店では、景品として切手を添えるとか、朝九時までの客に菓子を三割引で売るとか、旬末サービスに五割、誓文払には二割を引く等各店競ってやり出しまして、しかもその傾向がますます激しくなって来る様であります。かようなヤリ口は購買者を見くびるも甚しいことで、大百貨店たるものが、かかるトリックを平気でやっている様では、百貨店の長所も半ば失われたのも同様で、客によって価格を二、三にするインチキ商売人と、全く五十歩百歩でありまして、今日繁栄を誇りつつある百貨店の前途も危いかなと云わねばなりません。
 私の正札はこれらと全く異り、正真正銘の正札でありまして、福引も、特売もいっさい致しません。歳暮、中元に景品を添えることもありません。また、一度に多量の御買上げがあっても少しの値引も致しません。親疎遠近にかかわらず一切の顧客に対して、全く平等なるサービスを致すのが真の正札主義の原則であり、また、私が開店以来、終始一貫して来た信念でもあります。
 従来、商店の中には最も有難い言い値で買って下さるお客には高値で売り付け、値切るお客には廉く売るというような誠に不合理なことを平気でやり、しかもこれをもって商売のコツなりと心得ている向きも少なくなかったの
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