し、主人も朋輩に疎んぜられ、出世の障りとなるやも知れない、外交官でいて交際費をためる人は名外交家となれぬというが、人間金銭にきたないようでは世間に立って思うように活動出来ないのも当然であります。
 そうして金をためてどうなるかというと、資産家が自己本位の世渡りのために、人の怨みを買うて非業に死し、あるいは子孫の教育にわるい結果を残す。金というものは世間に廻り歩いてこそ効用をなすが、一つ所に積んでおいたのでは、決してよいことがありません。人は子孫のためにと言って金を残すが、残された金は子孫の仇となる場合が多いのであります。
 それゆえ各々の分度を守り、収入相応の生活をして、自分も楽しみ、世を楽しく暮すことが第一である。そうすれば子孫も自ら伸び伸びとして素直に成長し、人を愛し人にも愛される者となる。いにしえ極度に節約した結果であっても、家に余分の富が積まれていれば、自然子孫は遊惰になるが、身分相応のびのびと生活してその中で成長した子供なら、金はなくても立派に独立して働けるであろう。
 もう世を去ったある有名な断食奨励家は、月末の支払いは来月に延ばして、その間の金利を貯うべし、書留郵便料十銭を節約するには一銭不足の郵便を出せば不足税とも二銭で八銭の利あり、また一週間を七つに割って、その中の一日あるいは二日を銭なしデーとなし、この日には必要あるとも絶対に一銭の支出もしてはならない。すべてこの調子で貯金だの宣伝をしたものであったが、なるほどこれなら貯金は出来るであろうが、人間味はどこにあるか、全く守銭奴となって、世にも人にもつまはじきされ、生き甲斐なく淋しい一生を送らねばなるまい。
 分相応を第一とするとともに、栄枯盛衰はあざなえる繩の如し、時に貧しくとも驚かず、貧乏負けせぬが必要だとともに、富貴に処して得意がらず、余裕をもって善事に奉仕すべきであります。ここにおいてさらに云わねばならぬのは、およそ人として順境に生きることの難しさである。金が出来たので衆望もないものが、議員候補に乗出したり、あるいは妾等を蓄えて家庭に風波を起すもあり、また善事に奉仕するというても、故郷を離れて神社仏閣に寄付の高を誇りにしたり、与うべからざる者に金を与えたりして、かえって虚栄に陥りまた人を毒する結果となるものが、世にまことに多いのである。明治の中頃、小石川目白台に、アウンバラバなる一僧侶があった
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