済生活に立入るのではないが、思いつくままに少し金の使い道ということについて言ってみたい。ただし諸君は使い道を考えねばならぬほどの金を持っているわけではない。私の言うのは金の有る無しによってでなく、要するに金というものに対する我々の態度を考えるのだと思ってもらえば間違いありません。
 有名な二宮尊徳先生は諸君も知る通り質素と勤勉を教えた人だが、この先生が、人々の生活費はどの程度にすべきかということにつき教えたのを見ると、分度を立ってこれを標準にせよと言い、その分度なるものは、人により身分により、収入の多少によって異り、大名には大名らしい生活を必要とし、その大名の中でも十万石と二十万石とでは自ら違わねばならない、皆分相応にするをよろしとし、およそ収入の大略八割をもって生活すべしと教えています。なるほどさすがは二宮先生の言である。何でも節約せよというのではない。
 さて私が見るところ諸君の中には、収入全部を消費してなお不足する者もあり、一方にはまた収入の七割八割も貯えて、貯金の殖えるのを唯一の楽しみとし誇りとしている者もあるようだが、これは双方ともあまり賞めるわけには行きません。いったいこの俸給なるものは、昔大名が石高に応じて兵士を養うたと同様、本人の生活の必要に応じて与えられまた受けるものであるゆえ、高給を受ける職長、幹部の人々はみなそれ相応の生活をするのがよろしく、それでも済むからといって薄給の部下と同等ではいけません。また薄給の若い人が、よい生活をしたがり、先輩と交際を競うようなことがあれば、これは僣上の沙汰です。
 それからまた妻君がだらしなくて、主人の収入を全部消費し、まだそれで不足を感じるなどというのがあるとすれば、病気その他万一の場合にはどうするか、たちまち困難に陥り、朋輩に借金でもして一時をしのがねばなるまい。しかしふだんの時でも不足勝ちであったものが、その借金を返すことは容易でなく、ついには不処理の結果、店を退去しなくてはならぬようなことにもなる。
 またこれに反し、妻君があまりがっちりしていて、主人に小遣いを持たせず、子供におやつを与えず、専ら貯金のみに腐心するというようだと、節約のために家族は栄養不足に陥り、子供の発育を害し、あるいは病気にしてしまう。また世間なみの生活をせぬところより、子供が不知不識《しらずしらず》卑屈になるなどのこともあるであろう
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