上は少しでも犠牲を減ずるために、一日も早く閉店することを主人に進言しましたが、あくまで寛大な主人は『まあこの暮だけはこのままにしておけ』というので、仕方なしに来春を待つことにしました。
 二十五日は大正天皇の崩御遊ばされた悲しき日でありました。市民は御重態の発表を知るや、一刻も早く御悩の去らんことを祈りつつ、街々は迎春の用意に商店の軒先も注連繩《しめなわ》を張り、吉例の松飾りを立てつつ安き心はなかったのです。ついに陛下は神去りまして世はまるで火の消えたよう、あらゆるものは黒一色に塗りかえられてしまいました。
 かくて上下憂愁のうちに諒闇《りょうあん》の春を迎え、昭和二年の御代となりました。
 文雄は正月四日神戸を出帆して南米に向かいました。諒闇のこととて店でも新年宴会を慎しみ、丼で済ませ、地獄の釜の蓋もあくという正月十六日のお賽日は一日店を休ませました。それから株を与えてある店員十名を、改築前の広間に招き、主人から旧冬代々木初台に開設した支店を断然閉鎖すること、設備費数千円の損害は諸君の生きた学問の月謝として清く諦めること、閉鎖する支店に未練を持ち継続することを許さず、なお前に贈与した株式は払込額面の一割増しで主人が即時買い戻すことを通告して、現金を店員たちの前に出しました。もちろん彼らに異存のあろう筈はなく、時ならぬ現金を懐中にしてその場を引き下がりました。しかしひそかに冷汗を拭うた者もあることでしょう。
 私たち二人はかように清算したことによって気持も晴れ、多くの教訓を得て、もはや数千円の損失などは問題ではなく、これで我が中村屋も雨降って地固まる、いよいよここに基礎が定まりました。
 中村屋は今や年とともに外観内容ようやく整頓しつつあり、ますます発展の途上にあるのは有難いことではあるが、何時も順風に帆を上げて走れるものと思うてはいけない。すでにこれまでにたびたび停滞頓挫、また数々の失敗を体験していることを忘れてはならない。この失敗の上に初めて一人一業また一人一店の中村屋精神が定まったのであることを、皆さんもよくよく理解してもらいたいのであります。

    問屋のつけとどけを受けぬこと

 毎年正月の新年宴会は、中村屋の最も楽しい行事の一つとして、かなり賑やかに行われたものでした。
 問屋から贈られるいわゆる中元の品物は、七月十六日の盆休みに店員一同に分配するのに至極簡単でしたけれど、歳暮と年玉は山のように積まれ、私はそれをまとめて整理しておき、新年宴会の席上で福引として一同に分配しました。しかしなにぶん人数の多いことですから、私の方からも相当追加するのでなければみなに行き渡るだけはなかった。
 福引のことだから十四、五歳の小店員に、大人物のシャツや煙草が当ったり、職長級の人にお多福の面が行くというわけで、そのつど拍手喝釆しているけれど、その実、貰ってあまり有難いとも思えないものもあるわけです。ただ私は問屋が日頃の引立てに対する感謝の意としてきわめて素直に受け、主人が独りで納むべきものではないから、贈物全部を皆に分配して至極いい気持になっていたのでしたが、いつの間にか問屋と店員の間に忌わしい関係を生じて来ました。今まで正直一途の模範店員であったものが、この問屋の手管にしかと押えられ、しらずしらずに堕落しつつあることを知った時の私の失望と悲しみはどうであったか、これはあなた方にもよく聞いておいてもらいたいのです。
 これは問屋の主人よりも外交員が悪いのです。仕入部あるいは重要な地位にある店員を抱き込み、内々金品を与えて否応なしに人情に訴えて不正取引をやらせるのです。問屋のこの手にかかった番頭は二等品を納めておいて主人には一等品として支払わせて、その間の利益を着服するなど、だんだん深味に足を踏み込んで取返しのつかぬ始末となるのです。先方の番頭は充分世才に長じ、人情の弱点を心得ているから、決して初めからお金などを持っては来ないのです。例えば小手調べに活動の切符などを持って来て、お暇ならどうですという。こちらはたかが活動の切符だと気にもしないが、日付を見ると何日とある。ちょうど用事も片付いた、ただ捨てるのも惜しい気がしてうかと行って見る。次には芝居の切符を持って来る。これが無事通過すればもうしめたもの、今度は飲食店に誘う。この辺からフルスピードで魔窟に急転直下するのです。すでにここまで転落すれば給与される金ではとうてい足りないから、朋輩に金を借り、ついには主人の金品を胡魔化《ごまか》す、仕入部と工場に忌わしい連絡が結ばれる、とうとう陥る所までおちて馘首《かくしゅ》され、昨日の店員も今日からは他人となり縁が絶えてしまう。こうして将来ある青年をあたら中途で堕落させたことも幾度か、やはりここにも主人として重大な責任のあることを思い、深く心を悩ますのです。
 ついに長年行われていた中元歳暮の旧慣を廃し、絶対に問屋からつけとどけの物品を受けないことにして、ただちに問屋にその旨通告して諒解を乞うた。それでも名実ともに物を贈らぬ受けとらぬという店の鉄則を実行するには、相当の年数を要しました。

    商人の妻はお内儀さん

 私は本郷に店を持つとともに、先代中村屋のいっさいを継承しました。店員女中ばかりでなく、主婦をお内儀《かみ》さんと呼ばせることまで受けつぎました。いったい小売商人の家内を誰も奥さんとはいいません。奥さんは官吏あるいは教職にある人の夫人等、すべて月給生活をしている人の夫人にふさわしい称号ですが、小売店の主婦をお内儀《かみ》さんというのはこれも最も適当な称び方だと思うのです。それゆえ私は今でもあなた方にお内儀さんといわせ、奥さんとは決して称ばせない。うっかりあなた方が奥さんと私を呼ぶと、私はそっぽを向いて返事をしません。
 もし皆さんがお内儀さんというのを奥さんというのより低いと思うならば、それはたいへんな間違いです。夫人あるいは奥さんの仕事の範囲は、いわゆる奥の仕事で、おもに家庭に属する雑多なものです。が、お内儀さんの方は少しく趣きを異にして、家業の仕事の過半を受け持ち、中にはほとんど八、九分まで担当し、残る一、二分が主人の領分となっている家もあるのです。別に権利義務を云々しなくともお内儀さんの命令は行われ、自ずから威厳が保たれる。いうまでもなくこれはそのお内儀さんの徳と手腕によることで、お内儀さんだからいうことをきくというのではありませんが、とにかくお内儀さんは決して軽蔑どころでなく、正に千鈞の重みを感ぜしめる。それだのに女はどうしてお内儀さんといわれるのを好まないのであろうか。少なくともあなた方は店頭《みせさき》で私を奥さんと呼ばないように注意して下さい。

    主人主婦と店員の例会

 主人は病気でない限り毎日店に出勤して、報告を聴取したり指図したり、工場を見まわり、店や喫茶部の飾りつけに注意を与えたり、またものの決裁と人事に関するいっさいを主人自らやっていることをあなた方はよく知っている。しかし全店員と顔を合わせることはほとんど不可能です。まして私は二十年来病弱の身となり、昔のように立ち働いたり店頭に立って若い皆さんと仕事をするということは出来ない。したがって店に行くことさえも甚だ稀れになってほんとうに申し訳ないことです。
 だから途中から入店した人で全然顔を見たことのないのも出て来て、毎月、月給の袋に名を書く時いつも済まない済まないと心の中にお詑びをしています。それで私は主人と相談をして、あなた方に時々宅まで来てもらって挨拶をしたり近づきにもなったり、古参の人たちとも親しみ合っておかなければ、私として安んじないのです。毎月というわけにもいかないが、店の都合のよい時に例会を催すことにしたのは、あの大震災後間もない頃であったと記憶しています。
 なかなか大勢だから一時に集まることは出来ません。やむを得ず全員を七、八回にわけて来てもらい、一緒にお弁当を頂きながら、互いに自由に話すことは、昼間忙しく働いて疲れているあなた方としては迷惑でもあろうが、私には非常なよろこびなのです。いかに弁松の弁当がおいしいとしても、七、八回同じものを食べつづけることはいささか閉口するのですが、いいえそれのみならず、皆が食べ残した野菜、焼ざかな、漬物はもちろん、御飯もみな整理して、主人はじめ一家で頂くので、時々一日三回もこのおあまりをお惣菜にすることがある。が、そんな辛抱は何でもないのです。同じものを同じ食卓で頂くということは、それだけでも私にはどんなに嬉しいことか。さながら骨肉相あたため、心と心とが結びつくように感じるのです。それから和気|藹々《あいあい》たる中に各職場の苦心と労力をさらによく理解することが出来、例会より受ける功徳はじつに大きいのです。
 いま一つ嬉しいことがあります。それは店員一同が差別なく雑然として食卓につき、弁当を食べるという簡単なことであるけれど、回を重ねるに従って、腰の掛けようからお箸の持ち方まで、一々誰が指図するでなく自ずと心持から整って、静かに行儀よく行われるようになり、残しても御飯とお菜とを別々に綺麗にのこす。果物の皮を床に落さず、きまりよく片寄せておく。初めはまごまごして箸を取った少年も、後には『頂きます』といい、箸をおく時は『ごちそうさま』というようになる。いつとなく皆の態度が上がって来ました。あなた方が帰って行った後、女中たちと一緒に一通り食卓をしらべて見て、私はその食卓の整然としているのに嬉しくて有難くて涙がにじんで来るのです。私たちの店員はこんなに行儀のよい子供であることを、いつも心から感謝し、なおこの上にもよかれかしと祈るのです。

    開眼の降誕仏

 新店員を試験する時、私は必ず『あなたの家では何の宗教を信じているか』と尋ねて見る。三分の二までは仏教という答、もちろん日蓮宗[#「日蓮宗」は底本では「日連宗」]とか真宗とか宗旨はそれぞれ違いますが。
 日本の文化は昔、支那、朝鮮を通して仏教がもたらしたものであることは、皆もすでに学んで知っているでしょう。そして支那や朝鮮の文化はまた印度を母胎としています。すなわち釈尊の誕生された国が根元地というわけです。
 後代仏教が既成宗教として種々の弊害を生じ、従来の信望を失い、また廃仏毀釈の憂き目に逢って、一時仏教の勢力は全く地を払った時代もあったにかかわらず、何の時代でも文化の上に仏教の恩恵に預らないことはなかったといって差支えないくらい、日本国民の魂には深く何ものかを植えつけられて来ました。昔は四月八日には仏教を信じると信じないとにかかわらず、日本中至るところで釈尊の誕生を祭りました。これはもう仏教徒だけの仕事でなく、一般に普遍して民衆的行事の一つとなっていたのです。ちょうどクリスチャンでなくとも十二月二十五日にはサンタクロースやツリーを飾り、綺麗なデコレーションを施し、これが暮の街のショーウィンドーの王座を占めるようになったと同じであります。そしてこのクリスト教とともに欧米の文化を取り入れ、それに心酔するようになってから、我々はいつとはなしに釈尊降誕の日を忘れ、クリスマスにばかり力を入れるようになり、まことに遺憾なことであります。ことに東京でこの傾向が甚だしいのです。
 そこで私は今一度お釈迦様の誕生日を思い出し、全国に釈迦降誕会の行事を復活させたいと思い、昭和三年初めて降誕会を兼ねて、我が中村屋で花祭りをすることにしたのです。そして幼い頃の釈迦だんごを思い出し、さらに新しい工夫を加えて、現在行われている釈迦だんごを作り、中村屋考案の供物としました。ボース氏の母国印度で行われる「シガラ」「パイエス」等も新製して供物とし、おとくいにも提供することになりました。
 毎年花祭りの頃、店でお祭りする降誕仏は大内青圃氏に託して製作したものです。故渡辺海旭師にお願いして厳粛に開眼の式を行い、供養をしました。供養の時には製作者青圃氏と令兄青坡氏、相馬家一同列席し、大導師渡辺師はじつに敬虔なる態度をもって、献香読経をして下さいましたが、居なら
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