ぶものみな荘厳の気に打たれ、それよりこのかた真に敬虔なるおもいをもってこのみほとけをおまつりして参りました。すなわち毎年四月一日から八日まで開扉して店でお祭りし、来店されたお客様にも拝んで頂いています。かように魂のこもった開眼の仏なのですから、あなた方も粗略にしてはなりません。

    物故店員慰霊祭

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  物故店員氏名

相馬精一郎 浅野民次郎 長束実  山本留吉

吉川浪雄  角田良雄  平野寅三 金谷信夫

はつ    飯田千代  遠藤倉次
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 これらの人々もかつてはあなた方と同様に、中村屋のためによく働きよく忍んでくれたのですが、不幸短命にして今日の中村屋を見ることができず、私どもももはや何をもってしても報ゆる道なく、まことに残念でなりません。こういう人たちの努力が礎石となって今日の中村屋を築き上げたのだから、私どもは永久にこの人々を忘れてはならない。いうまでもなく今より薄給で、芝居を見せてやったこともなければ、御馳走もしてやれなかった。娯楽室も図書室も与えられなかった。見学旅行もさせられなかった。せめて生き残っている人たちは追善供養を営みその冥福を祈りたい。すなわち年に一回春の彼岸に増上寺において大島徹水猊下御導師のもとに、あなた方とともに物故店員の法要を行う次第です。
 またこのほど阿彌陀如来を迎え奉り、開眼の供養をして食堂に安置し、位牌をまつり、あなた方の合掌の縁としました。

    動物供養のこと

 あなた方は日々その職場にあって、一日平均七十貫(五千個)の地玉子と、百ポンドのフレッシュ・バタ、牛乳九斗(十三頭の乳牛を要す)、三十五貫(五十羽)の鶏肉、三十八貫(八頭ぐらい)の豚肉と若干の牛肉、魚貝、野菜等の原料を用いる。この他に店員二百七十名の食事に要するものがあるが、これは別として、以上の原料はことごとくあなた方の手によって菓子となり、料理となって顧客に提供されるのであります。これが休日を除いて毎日毎日繰り返される。思えば私どもが生物の生命を絶ち、またその恵みに浴することのまことに恐るべき大いさ深さ。おろそかに看過してはならないことです。
 けれども皆さんは、自分の料理する鶏がどこで、誰によって、いかにして飼育されるか、恐らく知っている人は少ないでしょう。仕事が大きくなり、何部何々部と分科的になれば互いに自分の領分に籠り、また実際担任以外の仕事に及ぶことは困難に相違ないが、それでは製品の筋道が判らず、自信をもって顧客に進めることが出来ません。それで私は現在中村屋の軍鶏《しゃも》の肥育飼いと牛乳について少し話をしておきます。
 中村屋で鶏というのは軍鶏のことで、鶏肉としてはこれが最上の品です。まず雛鶏を六ヶ月ぐらい飼育しておき、それから三、四週間暗室の独房(バッターリ)に一羽ずつ入れ、滋味あるどろどろの餌を管を通して与える。運動を止められるので鶏は肥って肉は柔かになる。これがすなわち肥育飼いです。こうして鶏が卵を生む性能が出て溌剌として見事な若鶏となるのを待ち、まだ雌雄接しないうちに鶏舎から中村屋の料理室へ毎朝提供されるのです。
 この鶏舎は初め甲府市外の素封家河野氏邸にあって、令息豊信氏がシェパード犬を愛育する傍ら鶏を飼って居られたものです。豊信氏は安雄とはシェパード犬研究のお仲間で親交あり、中村屋の仕事をよく理解して趣意に賛成せられ、私どももついにこの方に中村屋鶏舎場の場主兼経営者として、協同協力をお願いすることになったのです。その後仕事が大きくなって千葉地方の広い所に鶏舎を移し、ますます新しい研究へと目夜精進されています。両親の愛と物質的にも恵まれて世の辛酸を知らず成長したいわゆるお坊ちゃまは、たいてい肉体的勤労を厭い、白き手を誇る傾きがある中に、氏が現代の科学的立場に立ち、自ら土に親しんで実生活に邁進《まいしん》されるのはまことに頼もしい限りです。
 元来軍鶏は喧嘩鶏といって、絶えず仲間同志蹴合いをする特異性を持っていますが、喧嘩に勝った鶏は揚々として首を高くもたげて四辺を睥睨《へいげい》し、あたかも凱旋将軍の如くでますます飼主に重んぜられる。これに反し敗れた鶏は意気消沈して、一時に肉が落ち味も劣ってしまう。それゆえ鶏が闘って敗れればそれはもう中村屋の使用鶏にはなれないのです。たちまち二位三位に落とされてはねのけられ、もう一等級には入れられないで、他へ売られて行くのです。
 だから飼主は鶏に喧嘩をさせないように、絶えず注意しなければならない。大風が吹いて樹木がざわざわする夜などは飼主の心配は一通りでない。神経質で気のあらい軍鶏は荒天に刺激されて鶏舎の中で大騒ぎをはじめる。そして鶏は肉痩せ、大風の後には相当の損害を覚悟せねばならないのです。
 餌は科学的研究によって各種のものを選び、ヴィタミンE補給のために日光によく曝してから与える。容器その他の物ことごとく清潔に洗い、鶏舎の内外塵一つ落ちていないほど清掃が行きとどいています。たまにはあなた方も誘い合わせて、千葉県木更津にこの鶏舎を見学するとよいと思います。

 中村屋牧場は乳牛十数頭を飼えるだけの最も小規模なものですが、自家製品の原料または飲用としての牛乳を得るに恥かしくないだけの自信を持っています。警視庁の調査によると中村屋牧場の牛乳には、普通乳の百分の一しか黴菌を含んでいないこと、脂肪率も三・八くらいありと証明され、しばしばお褒めに預っている。脂肪の多いのは餌が良いからで、黴菌の少ないのは搾乳の前に乳房と乳首とをよく拭いて消毒し、清潔にしてしぼるからです。しかしどんなによく乳首を消毒しても、最初に搾った五勺ぐらいの乳は有菌ですから捨てなければならない。この最初の乳が全体の乳にまじると、その黴菌はたちまち繁殖して、幾百万という菌になるのです。
 牧場主任の和田武夫氏は「黙移」の中に書いている通り一風変った経歴を持ち、なかなか面白い人物ですが、この人のいうところによれば、牛を飼うには人間に対すると全く同じに慈悲と親切をもってしなければならない。それでこそ牛も初めて素直になり、穏やかに人間の意に従う。実際牧夫が乳房を搾っても牛は乳量をたくさんに出さないが、主任が手をかけて搾ると気持よさそうに眼を細め、じいっとしていて濃厚な良い乳を多量に出します。牡牛は気が荒くてなかなか牧夫のいうことを聞かないものですが、もしこちらで腹を立てて打ちなどすると、その一度だけで、もう良い牛にはなりません。中村屋の牡牛が牝牛のように柔和従順であるのは、ひとえに和田主任の愛育によるものであることを知らなければならない。
 中村屋牧場はこうしてたしかに牛の平和郷ですが、ここにもいたましい犠牲を出すことがあります。それは生れた牛が牡牛であると、しばらく飼い育てた上、食用として人手に渡さねばならない。また怪我をしたり、子を生まなくて乳牛の用をなさぬようになればこれも屠殺場に送られる(病牛や斃死した牛は食用として許されません)のです。
 こう考えて来るとあなた方の胸にも、人に栄養を提供してたおれて行く生物のいたましさを感じるでしょう。年々増上寺における動物供養は、私どもの生物に対する追善の心よりするのであって、皆さんもどうか当日は心から合掌礼拝してその霊を慰め、冥福を祈って下さい。
 三河の国では年に一度百姓たちが集まって、虫供養ということをするそうです。これは平常田や畑へ出て働くうち、鋤鍬の先に触れて死ぬ虫を憐み、また作物を育てるためには害虫駆除をして思わぬ殺生をするので、百姓たちの心に自ずからこの仏心が生ずるのだとききました。私たちもまことに同感です。

    現れた力と潜んでいる力

 江戸ツ児は総じて早熟で、敏捷で物わかりが宜しいから、入店するやただちに何かしら役に立ちます。しかし惜しいことに根気がなくて物事長つづきしません。目先のきく割合に大成しない傾向があるのです。これに反し、地方出の少年はすべて鈍重で物わかりがわるく、したがって急には役に立たないが、辛抱強くて指導さえ宜しければ[#「宜しければ」は底本では「宣しければ」]必ずよい店員になります。それをみわけて誤らぬように常に注意するのが主人や先輩のつとめであり、誰もその責任は充分感じているのですが、現れた才にはつい眩惑され勝ちなものです。
 店員の間に、誰は無能なのに高給を食んでいるなどと不平をいうものもありそうだが、一見無能力者のようでも真直な人は、一家にも一商店にも一団体にも重きをなすものだということを、普通の人は知らないのかと思います。
 メーテルリンクという人の脚本の中には、きっと老い朽ちた老人が、ぼんやりと椅子に腰をかけていねむりをしているのが出ています。そして血気盛りの若者たちが瞬間の後に襲って来る一家の不幸を知らずに笑い興じている時、そのいねむりをしている老人だけは予知していて、自ずと暗示に富んだ独白をする場面がある。正直な無能力者は眼に見えて有能なものより、かえって一段上のつとめをすることがあるのです。これはむろん頂門の一針、主人側の注意すべきことです。

    新製品を売り出すまで

 世間には自分の店で販売する品を、絶えずあれかこれかと変える人があるようです。中村屋では新しい製品を売り出すまでには、数年少なくも三、四年の月日を研究のためにかけている。例えば松の実にしても主人と二度朝鮮に行ったばかりでなく、これをいかに用いるべきかを研究するのに三年かかり、約一ヶ年というもの松の実の試験を右川学士に依頼し、そこでようやく現在のような製品を得て、自信をもって売り出すことが出来たのです。黒光餅、黒光かきもち、かりんとう、駄菓子、塩釜など、いずれも思いついてから数年を費して研究したもので、最近では蜜豆、しる粉なども相当長い時を経てようやく売り出した次第です。にわかに思いつきで店に出したようなものは一種もないというところですが、ただ一つあります。それは毎年晩春の頃柏餅に次いで売り出す葉桜餅です。これは主人が書いている通り、にわかの註文取消しから莫大の損失を招くところを、主人の機智で危いところを救われ、期せずして加えられた記念すべき品です。これぞ禍いを変じて福となした好適例で、長く店にいい伝え、あなた方の心構えに備えたいものです。
 しかしこの葉桜餅は全く異例であって、いつもかように突発的に新製品を出しても売れるものと思ったら、たいへんな間違いです。軽率に店頭に出して一向に顧みられず、やむを得ず後退させるようなことがあれば、それは一代の不面目、あたかも戦いに敗れて兵を退《ひ》くのと同じ恥辱であります。それなればこそ前もって種々の方面から研究し、遺憾なく準備する必要があるのです。よく売れる品には売れるだけの苦心が前に払われていることを、繰り返し言っておきます。

    自分の仕事に自信を持つこと

 先年店員の中に、仕着せの縞物《しまもの》を嫌い、絣《かすり》を自弁でつくったり、あるいは店服のルバシカを脱いで詰襟を借着して学生風を装うものなどがあって、私どもは大いにその不見識を戒め、そんな心がけでは何をしても成功おぼつかないと懇々説き聞かせたことでしたが、こういうことをするのは自分の選んだ職業を恥ずるものと認めなければならない。いやな仕事ならば断然止めて好む道に進むがよいのです。人身の売買など正しからぬことを業とするならばともかく、いやしくも商売に上下貴賤の差別はない。私は自分の仕事を神聖なものとして尊重し、一生をこれに打ち込んで恥じません。

    あくまで独創的に

 私たちは人々から折々妙な質問を受けます。それは『どういう方法で今日の繁栄をかち得たか』『商売のこつを教えてくれ』などと言われるのですが、いつも返答に窮し、あまりに世間の人の心持のちがいを知らされて、何ともいえぬ淋しさを感じます。
 私たちは最初からどうすれば繁昌するかなどと考えて商売に着手したのではない。もし私たちが商家に生れて、いわゆる商法に通じて家業を継承したのならば、
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