ある時は日本料理、支那料理と、全員一堂に集って食卓を囲み、団欒をたのしむ。これも私どもは大切な年中行事の一つとして、そのつど相当の心づかいをしているのです。私はこれをあなた方の修業の一つだと心得ています。食物を扱う中村屋の者として、時々一流の料理屋で正式に食事し見学することは、当然必要なのです。皆さんは自分がお客様となって見てどんな気がするか、どんなことを求め、どんな不満を感ずるか、そうしてそれはただちに自分たちの平常のお客扱いに対する反省となる筈です。人の振り見て我が振り直せ、他店の使用人のサーヴィス、料理のよしあし、食器を運ぶ時に不愉快な様子はないか、さわがしい音は立たぬか、いろいろ自他を比較研究して、先輩の指導よりも有効に、自発的に多くの呼吸を知るのではなかろうか。またお客としての礼儀作法をおぼえる機会にもなるのです。
絵を一つ観るとしても、私たち素人に本格的な観方の出来る筈はありません。この絵は良い、この彫刻はどうと言って見たところで、どうせ素人眼にすぎないのですけれど、それでも常にすぐれたものを数多く観ていると、いつかは少しずつ眼が養われて来て、あまり目先のものに惑わされなくなる、何となく鑑別《みわけ》が出来てほんとうによい作品の前には、自然と頭が下がるようになります。これに反し、これこそ立派な作品だといって示されても一向解することが出来ないなどは、いささか恥ずべきものであります。
すぐれた絵や彫刻により、また建築あるいは家具装飾の高雅な趣味によって情操を養われ、洗練されれば、営々としてやむことなき生活戦線に疲れた時でも、機械化した工場に働く中でもどことなく心に余裕を保ち、まして夕ぐれ憩いの時が来れば、新月のさやかな光りも心にしみ、暁霜を踏んで工場に急ぐ時も頭上にかがやく明星に、若いあなた方の胸は歓喜に充たされるでしょう。私どもは何よりもまずよくものを感じ得る心にならねばなりません。その大いなる導きとして私はあなた方の前に、一つの額一枚の皿をも心して備えたいと思うのであります。
年末ちん餅の思い出
年末のちん餅についても、あらゆる科学と機械とを利用した現在の中村屋と、昔日の中村屋とを比較して、まことに隔世の感なきを得ません。
昔は節季の餅は搗《つ》きのわるいものとして、おとくいも餅屋も通用して来たものですが、私たちが初めてちん餅をやった時の糯米《もちごめ》は、普通の搗き方ではとうてい上糯米の本質を発揮することが出来なかったのです。初め私たちは餅菓子屋の習慣にならって臨時に搗屋を雇ったものです。東京近郊から冬の閑散期一週間を市内の菓子屋に雇われて来る百姓の一団があり、それがみな元気溌剌としてほとんど疲労を知らぬ若者揃いでした。彼らは白いお米で生魚《なまざかな》が毎日食べられ、その上一日二円ぐらいの日当がもらえるのだから、いつも来年を約して村に戻って行ったものです。いまの仙川牧場はその頃から御縁がついていたのでした。
さてその元気な人たちが交替に杵を取って搗くのですが、前にもいったように中村屋の糯米は普通品よりも品が硬くてなかなか杵が通らない。いくら元気でもだんだん疲れて来て、何本ときまっている杵の数も減り、搗く音も自然威勢よくひびかなくなる。私たちは直接働く人たちの眼には、戦場のような忙しい中をぶらぶらと見てまわり邪魔をするくらいにしか見えなかったかも知れないのですが、私たちはそうしていて決して遊んでいるのではなかった。職人たちが四斗樽に米を入れ、満々と水を張っておいて一眠りする、その間の見張り、米がふやけて樽から洩れそうになっていると見れば水を足し、火鉢の火が師走の夜風に煽られていれば黙って薬缶《やかん》をかけておく。一通り見まわりが済んで室に戻れば、主人は明日の餅の枚数に間違いはないか調べる。それを終って帯を解かずに床に入り、どうにかうとうとする頃には、工場で起きて餅搗きがはじまる。どしんどしん震動が夜の空気をふるわして枕にひびく。それもしまいには慣れるけれど、杵の数をかぞえていると少し足りない。はね起きて工場に下り、今のは杵の数が幾本少なかったと注意し、搗き手はまた文句をいうと煩さく思ったことであろうし、今から思えばずいぶん無理なことであったと気の毒にも思うのですが、よい餅を搗いておとくいの信頼に報いたいと一念それに励まされて、餅搗き中はしみじみ寝た夜もないのでした。また近所へは、のし餅を配り、夜中の騒がしさを一軒一軒お詑びして歩いたものです。
三年目からは電力を用いて搗くことにしたので、搗きが若いという心配はなくなりましたが、今度は機械に故障が生じたら絶対絶命、仕事は全く不可能に陥る。これに対する苦心はまた格別で、手搗き時代の比ではなかった。機械が修繕されるまでみな手を空しくして待たねばならず、いたずらに時間が経って燃料は煙になってしまう。何よりもつらいのは明日の註文が後れて間に[#「間に」は底本では「問に」]合わなくなることでした。損失は諦めるとしても、節季の餅はどちら様でも祝儀のものですから間違いがあってはならぬ、この心配でほんとうに身も細るようでした。
暁方からは配達、近所は籠に入れ自転車で、遠方は大八車でまわりました。雨や雪が降るとその運搬の苦労なこと一通りではなかったのです。その頃は何しろ道がわるく、屋敷町などは泥濘に車輪を喰い込まれて途方にくれることがしばしばで、夜九時過ぎになってやっと戻ることさえありました。南信から来た常どんはその頃まだ十四、五歳、小柄であったが、忙しいからお前も配達しろと先輩にいわれて、餅をのせ自転車で新宿御苑の塀に添うた片側路を雪を蹴って走るうち、中心を失って溝の中に転がり落ちた。ちょうど通りかかった職人風の人に救い上げられ、常どんはべそをかきながらぬれねずみになって戻って来ました。骨の髄までしみ透る寒さにふるえ、泣いて報告する常どんを見た時は「雪の日やあれも人の子樽ひろい」の句を思い、ひそかに憐れでなりませんでした。
当時まだ小学生であった安雄も、餅搗きには印ばんてんや「あつし」を着て配達の手伝いをしました。冬の休みを利用して仙台から中学生の甥も見学だと称して出京し、安雄とコンビになって荷車の後押しや餅配達をやりました。
その中でのおかしい話。西大久保のおとくいに夕方餅を配達すると、女中さんはこんな固いお餅じゃ切るのに骨が折れるのではないかとさんざんのお叱言、上餅は早く固くなるもので、陸稲《おかぼ》の粗悪な餅はいつまでもやわらかで伸びるものですが、安値な大福餅が夜になっても固くならないのは道理なのです。しかし先方の女中さんもこちらもそんなことを知らないからただ恐縮して、それならば搗きたてのお餅と取りかえて上げますといって、その餅を持ち帰りました。翌日甥と安雄はまだ温味の残っているのし餅をお届けしました。女中さんは大喜びで受け取ろうとすると、餅と餅がくっついて離れない。それを無理に引き離そうとして持ち上げたところ、四角にのした餅が伸びて形がつぶれてしまいました。けれど女中さんは自分の註文なので再び小僧を叱るわけには行かず、不承不承に受け取ったがいったいあの餅はどうなったろうという報告に、お気の毒やらおかしいやら、全く忙しい節季の仕事中には思わぬ笑いを恵まれました。現在の安雄は主人代理として、帳場で主人の傍に坐っているけれど、かつてはこうしてあなた方の仲間で、年末ばかりでなく五月の節句にも中学を休んでまで家業の手伝いをしたものです。
一人一店主義の教訓
中村屋は元来一小個人商店にすぎないものでしたが、税金の関係と当時の社会情勢に鑑み、大英断をもって株式組織に改めました。大正十二年の春でした。それまでは営業人の名は主婦良で、実際主婦が主になって営業をして来ましたが、株式会社にする時、主人を社長とし、主婦を大株主と定めたので、これは主人の書いたものですでにみな承知でしょう。
ある秋のこと、松の実の相場が急に暴騰しました。私どもはその原因を調べるために両人同道で京城に行きましたが、調査して驚いたことは松の実の暴騰が仲買人の責任でもなく、荷主が悪いのでもなく、全くこれは私たち自身が値上げをしたようなものであったのです。京城の市場に行って見ると、田舎の百姓たちが一升二升あるいは三升と松の実を市場に持って来る。それを寄せ集めて何斗何石という数にまとめるのであって、内地で考えているように収穫の季節に大量仕入れをすることは、朝鮮人の手では不可能であったのです。もし一時に大量な仕入れをするならば勢い価が上がらざるを得ないわけで、私どもはその事情を知らずに、内地で秋の初めに一ヶ年使用する栗を仕入れする呼吸で松の実を多量に註文したものですから、京城では非常に驚き、にわかに諸所から少量ずつ松の実を集めるために、自然相場が上がったのでした。初め私どもは朝鮮人の仕事にもと思って取引をした松の実でしたが、商品として取り扱うのはまだまだいろいろ不便があって、結局内地人の手を経なければ商品にならないということになったのは、まことに残念でなりません。
朝鮮からの帰途、下関に上陸、それから九州を一巡して帰京しましたが、その間三週間ほど留守にした次第です。ところが店に戻るや驚くべき報告に接しました。それは我々の不在中に、支店を代々木初台の市場に設けることに決定したという、全く寝耳に水とはこのことでした。当時支配人格で店の手伝いをしていた人と年長店員たちの思いつきだという。この人たちは何に血迷ったのでしょうか。
千香子は幼少から店の手伝いをしていた関係上、主人の実印を預っていました。当時大学生であった安雄は古参の店員たちや支配人に説かれて賛成の意を表し、妹の千香子に実印を出させて契約証に捺印してしまったという。私は全身がふるえるほど、彼らの浅見と軽率が心外でならなかったのです。
しかし私は思うところあって、直接そのことに関係した人たちには何も言わず、代表的に安雄一人を極度に叱りその不心得を責めました。主人や主婦の不在をことさらうかがったというわけでもなかったでしょうが、帰京の時期も判っているのに、それをも待ち切れず従来の方針を覆したことは、中村屋の存亡にもかかわる一大事でありました。
初め中村屋を株式組織に改めた時、私たちは店員の年功者に一銭の払い込みもさせず、株式を贈与しました。それゆえその人たちは株主となり、自ずと権利を主張するようになったものと思われるが、これでは我々の好意がかえって彼らに害を与えたことになるのでした。彼らは権利は勝手に行使するが、義務のあることを知らない。それゆえこういう事態を惹き起したのではないか。これは悪かったと、私はまず自分たちを反省せずにはいられなかったのです。
私は少しぐらいの損をしても早く取り消すことを主張しました。が主人は寛大に見て、せっかく皆がよかれと思ってしたことだからと言って、とにかく開店することにしました。私も不本意ながらしぶしぶ主人の言に従わざるを得なかったのです。大正十五年十二月でした。
翌年の正月早々には文雄が南米に立つことになっていました。で、とりあえずそれまでの一月を最後の孝養として文雄がそちらの店番をすることになり、開店はたしか十二月の初め、いよいよ蓋をあけて見ると果たして店員たちの期待ははずれました。彼らはこの新しい支店で毎日三百円の売上げを予想しました。当時の中村屋としてはすでに相当繁昌していましたから、少し拍車をかければ現在のままでも三百円の増加を見ることは不可能ではなかったのですが、何を苦しんで四千円を投じて支店を設ける必要があったのか、あまりに認識の欠けているのを憫れまずにはいられない。
とにかく開業当日に百円の売上げがありましたが、翌日は八十円に減じ、六十円になり、とうとう三十円台にまで落ちてしまった。店員たちも文雄が売上げの財布を持ち帰り、それを数えて見て、初めて自分たちの認識の誤りに気がついたが、もう遅かったのです。年末を目前に控えて中村屋は一大危機に直面しました。この
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