中村屋は三十余年を通じて、一回たりともコンミッションに悩まされたことはない。すなわち御機嫌取りを必要とする向きにはいっさい眼をくれなかったのである。同時にまた、これが我が中村屋の急速に大を成さなかった所以《ゆえん》でもあると考えている。
 この問題について人のことながら思わず会心の笑みを洩らしたことがある。ついでに記すが、今から数年前のこと、中村屋を出て大阪に行き、菓子の卸売りをしている者があって、例年の如く東京に見学に来て、昔を忘れず私の所へ寄ってくれた。私は彼が卸売りをしているというので、『大商店や百貨店等に品物を入れるには相当のコンミッションが必要だというがどうだ』と尋ねて見た。すると彼はいささか面目なげにうつむいていたが『旦那様に虚言《うそ》を申すわけには参りませんからありのままをお話し致しますが、実際上一割ぐらいのコンミッションは、今のところ一般に必要と致します。私も中村屋に居りまして、御主人からあくまで良品を製造して正直な商売をせよと御教訓にあずかっておきながら、これではまことに申し訳ないと存じますが、どうも商売が出来ませんのでやむを得ず眼をつむって習慣に従うて居ります。しかし小林一三さんの阪急百貨店は、一銭のコンミッションも要りません。年末にごく軽少なものを仕入部主任に持参しましてたいへん叱られたことがあります。それで私の方もここだけには正味ですから確かな品を納めることが出来まして、とても愉快に感じて居ります』
 私はこの話を聞いて、阪急百貨店の将来を大いに頼母《たのも》しく思い、仕入部その他多数の使用人に対して、断然袖の下を謝絶させるだけの力のある小林さんは、当代ちょっと他に類なき人物であると考え、それ以来ひそかに畏敬していたことであった。果たせるかな、今日の氏の活躍はあの通りである。
 私のところは小林さんなどには比すべくもない小人数だが、それでさえ全くコンミッションの弊風を絶滅するには、かなり長年月の苦心を要した。世間がそんなふうであるから、私のところでも仕入部主任という地位はじつに危ない。他の係では無事に勤められたものが、ここに昇進して来るとたちまちにして過失をする。今はようやく理想的になったが、ここに至るまでに幾人かの犠牲者を出したことは、私にとってもじつに悲しい思い出である。

    同業者の囮《おとり》商略

 その頃中村屋の近くに、中村屋よりもはるかに優勢で、めざましく繁昌する食料品店があった。この店ではミルク、バター、ジャム、ビスケット等を、ほとんど仕入原価で売っていた。近所で、しかも同じ商品を扱っている中村屋としては、じつに迷惑なことであった。私の経営方針は、店の経費が償われて職人その他の雇人に世間並みの待遇さえ出来れば、それ以上の利益はなくとも宜《よろ》しいという信念に立っていたから、薄利多売大いに同感であるが、その店のようにミルクやジャムをほとんど無手数料で売っていたのでは、いくら売れたにしても店の立ちようがない。そんな商売は無茶というものであった。それでもその店は見事やって行く。どうも不思議だ。仕入れが安いか、何かぬけ道があるか、どうも正直な頭では解しかねることであったので、私はなおもその店に注意し、また相当の対抗策もなくてはならぬところであるから、いろいろ熱心に研究していた。
 するとある日のこと、横浜の貿易商が来て私に、葡萄酒、コニャック、シャンパン等を売って見ないかという勧誘をした。私はかつて郷里において禁酒会を組織したほどで、飲酒の害は知りぬいていたから、それを自分の店で売ることなど思いもよらない。で、膠《にべ》もなく拒絶した。しかし彼はなかなか引き退《さが》らない。私の最も気にしているところの例の店を指して、『あの店がミルクやジャムであれだけの安売りをして立って行けるわけをあなたは御存じですか』と、期するところあり気にいう。つづいて『それはこの洋酒や西洋煙草を売るからですよ。洋酒はだいたい卸値の二倍に売るもので、これあればこそ食料品の安売りが出来るのです、食料品は囮《おとり》ですよ』
 なるほど、この説明で私の長い間の疑問は解けた。それならば進んで、その店の安売りを中止させる手段《てだて》は――。勧誘子はさらに語をついで『中村屋もせめて滋養の酒だけでも店において、他の品同様に二割くらいの利益で販売なすってはどうです。そうすれば洋酒の客はみなこちらへ来るから、あの店の財源はたちまち涸渇する。それでは食料品の安売りも出来ないという順序でしょう』
 どうだこの種あかしを聞いては、嫌でも洋酒を売らざるを得ぬであろう、と言わんばかりの説明であって、折が折とて私もこれに動かされた。それではと葡萄酒ほか二、三の洋酒を店におくことにした。
 さてお得意先へも洋酒販売のことを披露すると、翌日内村鑑三先生が入って来られた。『今日のあなたの店の通知、あれは何ですか』内村先生は逝去せられて今年はもう八年になるが、故植村正久先生、松村介石先生とともに当時基督教界の三傑と称せられたもので、明治大正昭和に亘《わた》って思想界宗教界の巨人であった。ことにその厳として秋霜烈日的なる人格は深く畏敬せられ、自《おの》ずと衆人に襟を正さしむるものがあった。そして中村屋にとってはじつによき理解者で、最初からの大切なお得意であった。
『私はこれまであなた方のやりかたにはことごとく同感で、蔭ながら中村屋を推薦して来ました。その中村屋が今度悪魔の使者ともいうべき酒を売るとは……私はこれから先、御交際が出来なくなりますが』『酒を売るようではあなたの店の特色もなくなります、あなたとしてもわざわざ商売を選んだ意義がなくなりましょう』私は全く先生の前に頭が上がらなかった。他の店の狡猾な手段を制するためとはいえ、つい心ならずも酒を売ろうとしたのだ、全く面目次第もないことであった。私がそこでただちに洋酒の販売を中止したことはいうまでもない。
 こんなふうで、その店の囮商略はずいぶん中村屋を悩ませた。世間には理解のあるお客様ばかりはない。商売は儲かるものと思い、だから安く売ろうと思えばいくらでも安く売れるのだと考えている人が、まだ世間には多いのである。そういう人はこの囮商品の安値に釣られ、正しい値段で売っている方を暴利と見る。誠実な商人にとっては迷惑この上もないことである。
『商売は儲かる』という人は、売上げから元値を引けば、後はそっくりそのまま利益として残るものとでも見るのであろうが、商売はそんなに易々《やすやす》とは行われていない。お客の需《もと》めに応ずるために各種の品物を常に用意し、買ってもらえば袋とか箱とかに入れ、紙で包み紐をかける。配達でもすればなおさらのことだ。いうまでもなく家賃、税金、装飾、電燈電話料、従業員の食費給料、むろん主人家族も生活せねばならない。それらの経費を弁ずるために、仕入値におよそ二割を加算するのが、昔から商売の約束とされてある。日本は生活費が安いから二割で足るが、物価の高い米国ではなかなかこの程度では済まない。最低二割五分、上は四割、五割に達して、まず平均が三割二、三分となっている。
 とにかく我々の店で薄利多売を主義として理想的の経営をするとしても、最低一割五、六分の経費は必要であって、それに些少の利得を加算して二割の販売差益を受けるのは当然のことである。官吏が俸給を受け技師が設計費を取るのと、何ら異なるところはないのである。
 それを小売商人が他の店との競争意識にとらわれて、二割要るところを一割ぐらいにして客を引くと、それでは実際の経費を償うに足らぬのであるから、この無理はどこかへ現れなくてはならない。すなわち問屋の払いを踏み倒すか、雇人の給料を不払いにするか、家賃を滞《とどこ》らすか、いずれにしても不始末は免れないのだ。それゆえ実際の経費以下の利鞘で販売する商人は、真の勉強する商人ではなくて、他に迷惑を及ぼす不都合な商人というべきである。
 以上私が近所の店の囮《おとり》商いに悩まされたのは三十数年の昔で、時代はそれよりたしかに進んだ筈であるが、いまだにこの囮商いは廃されない。例の一つをあげて見ると、数年前のこと都下の某百貨店で、七月の中元売出しを控えて角砂糖の特価販売をした。当時角砂糖は市価一斤二十三銭、製造会社の卸原価が二十銭でこの利鞘が一割五分であるから、これは大勉強の値段であった。この同じ角砂糖をその百貨店では一斤十八銭売りとして広告を出したから、市内の砂糖商は驚いた。これは明らかに角砂糖を囮にしたものであって、たとえ原価を二銭も切って角砂糖では損をしても『安いぞ』という印象で砂糖に釣られて他の商品がよく売れるから、損はただちに埋め合わされ、かえって幾倍かの利益を見ることが出来る。百貨店のこの計画はたちまち砂糖店の問題となった。中元売出しを目の前にしてたくさん仕入れた砂糖が、これでは客を百貨店に取られて、どこもみな品を持ち越さねばならない。そこで砂糖店側では組合長の宅に集まって、善後策を相談した。その結果組合長が電話で製造会社に問い合わせて、会社がその百貨店に売り渡した数量は二十五斤入り三千箱一万五千円であることを確かめ、一同はただちにつれ立ってその百貨店に行き、売場に積み上げてある七百箱を買い取り、さらに一千箱の予約註文を出した。先方は狼狽した。こう大量に引き上げられては無益に千余円の損失を見るわけだ。さすがに砂糖商の苦肉の策と察してただちに陳謝し、囮の特価販売を中止する代りに、砂糖店側でも一千箱の予約註文だけは取り消してもらいたいと頼んだ。砂糖店の方でも百貨店をいじめるのが目的ではなく、やむを得ずこの挙に出たのであったから了解してこの事件を解決した。
 中村屋の店員諸子もやがて私のところを出て独立すれば、一度は必ずこういう試練に会うことであろう。願わくは酒を売ろうとした私の過失を君たちにおいて繰り返すことなかれ、いわんや自ら不誠実にして他人迷惑な囮商略を弄するものとなってはならない。

    賞与の銀時計

 やはりその時分のこと、中村屋の近くに村上というパン屋があって、ちょっと他の店にない美味しいパンをつくり出し、フランスパンと称して売っていた。そのパンは学生さんたちに特に好評でよく売れたが、中村屋ファンの学生さんたちはフランスパン、フランスパンと言いながら、やはり私の店の方へ来てくれる。そして顔を見るたびに『中村屋でも村上のようなパンを売り出せ、出来ないことはないのだろう』というわけで、私も何とかしてフランスパンを拵《こしら》えなくては済まなくなった。
 そこで職人にいいつけて研究させるのだが、彼らが何と苦心しても、そのパンのような美味しいのは出来なかった。私も残念であったが、お客様の方でもまだかまだかという催促でじつに困った。ところが一月ほどすると、長束実という少年店員がとうとうそれを造り出した。しかも食べくらべて見ると、村上のよりも美味しいくらいの出来であった。
 私は大いに喜んだ。これでこそ中村屋も恥かしくない、中村屋ファンのかねての信望にも報いることが出来るのであった。早速それを製造して売り出した。お待ちかねの学生さんたちも『これはいっそう上等だ、よく出来た』と言って喜び、友人たちにも大いに吹聴してくれた。店はいっそう売れるようになった。
 さてこの長束実は、中村屋が私のものになった最初に入店したもので、まだ小僧であったが、常から真面目で勤勉で研究心に富み、じつに感心な少年であった。果たして今度そういう手柄をしたのであるから、私はこれこそ表彰して他の店員の模範とすべきだと考え、賞与として長く記念に残るようにと銀時計を買って与えた。むろん店はじまって最初のことであった。純情な長束少年はこれを非常な光栄と感じ、いっそう仕事を励むとともにその時計を大切にして、つい数年前死去するまで、約三十年というもの、肌身離さず愛用し、死んで行く枕元にさえちゃんと飾っていたほどであった。
 しかし後になって考えると、この銀時計を彼にのみ与えたことは私の大きな過失であった。フラ
前へ 次へ
全24ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 愛蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング