ンスパンの製造のことでは皆が苦労したのであったのに、長束が成功して彼だけが称揚され銀時計をもらった。長束はうまいことをした、我々も苦心においては長束に劣らなかったつもりであるのに、主人は苦心を見てくれない。いったい主人はふだんから長束に目をかけていたようだ、我々は骨折り損だという気がして、店員全体にその後しばらく面白くない空気を醸《かも》した。なるほどと私は考えた。一つの商店は一家である。店主は店員の親であって、店員たちは店主の子であるとともに、古参新参のへだてなく、みな仲の好い兄弟でなくてはならない。兄弟は喜びも悲しみも共にすべきであって、そのうちの一人が優れていたからといって、親はそこに差別待遇をしてはならぬのであった。長束の手柄を褒めて一般店員の奮起を促そうとした私の態度は、長束には感謝されても、他の店員には気の毒なことをしたのであった。これは彼らが不満を抱くのは無理もない、たしかに自分が不明であったと、私は心ひそかに愧《は》じたのであった。
 私はこの失敗に気づいて以来、どんなことがあっても大勢の中の一人二人だけを褒めるということはしなくなった。店員は一家族である、親子兄弟の家族の中に見ても生れつきはそれぞれ異うのであって、他人が寄ればなおさらある者は力において優れており、ある者は智慧《ちえ》において勝り、またある者はその善良さにおいて、その勤勉さにおいて、親切さにおいて、これら各々の持ち前を出し合って一つの仕事一つの生活を支え合うところに家族の面白さがあるのである。賞すべき時は全店員を賞すべきであり、その労を慰める時は全店員を同じに慰めるべきである。そうしてこそ人各々の持ち前に応じた進歩があり、調和がある。現在中村屋では店員諸子を他に招いて御馳走する時も、芝居や相撲見物に我々が同行する時も、幹部から少年店員に至るまですべて同待遇である。特にその中の誰々だけを優遇し、誰を貶《おとし》めるということはしない。そういう差別待遇は中村屋の制度のどの方面にも絶対に存在しないのである。
 ただ罰する場合だけは、なるべく少数を罰して、他を警める方針を採っている。

    内村鑑三先生と日曜問題

 内村鑑三先生はある時私に対《むか》って『日曜日だけは商売を休んで、教会で一日を清く過ごすことは出来ませんか』と勧められた。
 一週に一日業務を休んで宗教的情操を養うことは望ましいが、我が国の如くいまだ一般に日曜休みの習慣なくかえって商売の最も多いその日を休むことは営業上にも宜しくない上に、多数のお客様の便利を考えぬ身勝手な仕方であると思い、これは先生の忠言にも従うことが出来なかった。
 その頃日本橋通りにワンプライス・ショップという洋品店があり、また神田に中庸堂という書籍店があって、どちらも日曜を休みにしていた。私もふだん忙がしい店員に十日目に一日くらいの休みを与えたいと思いながら、それさえ実行しかねていた時であったから、商売の最も多い日曜日の休業を断行しているこの二つの店の勇気に敬服し、なお絶えず注意し、どうなって行くものであろうと見ていた。気の毒なことに私の不安な予想が当って、中庸堂は破産し、ワンプライス・ショップは日曜休みを廃止してしまった。ああ私もあの時理想を行うに急で日曜休業を実行していたとしたら、中村屋も同じ運命を免れなかったに違いない、危いことであったと思った。
 いったい基督教が日本に拡がりはじめた明治の頃は、基督教徒に一種悲壮な頑固さがあった。そういう人々は基督教の精神を外来の形のままで行おうとして、風俗伝統を異にする我が国の実状とその伝統の根強さを無視してかかり、自身失敗するに止まらず、傾倒して来た多くの人々を過まらせた例が世間にじつに多いのである。
 昭和三年に私は欧羅巴《ヨーロッパ》の方へ行って見たが、いうまでもなくそれらの国々は基督教国であるけれども、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、我々のような菓子屋が日曜だからとて休業するのは見受けられなかった。欧州でさえこの状態である。時代と共に推移することもあろうし、何によらず型にはまってその通り行わねばならぬとすると、この通り間違いがある。休日問題に限らず、何事にも欧米の慣習を鵜呑《うのみ》にするのは危いと思われた。

    店頭のお客様が大切

 本郷の大学付近は、今は他の発展に圧されて目立たなくなったが、その時分はあれで学者学生の生活を中心に、その時代としての新鮮味を盛り、それらの店の中には本郷の何々といわれてかなり魅力を持ったものがあり、あの辺り一帯なかなか活気のあったものである。ちょうど三丁目の所には旧幕時代からつづいている粟餅屋があって、昔一日百両の売上げがあったという誰知らぬものない名代の店であった。
 私はある日そこへ粟餅を買いに行ったが、店が閉めてある。早稲田大学の運動会に売店を出して全員総出をしたから、店の方は一日休業だということであった。私はその時、この店は必ず破滅するなと直感したが、果たして間もなく閉店してしまった。
 運動会の一日の売上げが平日の幾倍に当り、どれほどの儲けがあるか知らぬが、そのために一日店を閉め切り、当てにしてわざわざ出向いて来て下さる常得意のお客に無駄足をさせる。こんな仕方をすれば多年どれほど売り込んだ老舗であっても、得意の同情を失って破滅に至るは当然である。
 この粟餅屋のような極端な例は別としても、大量の臨時註文というものを持って来られるとなかなか思い切れないものらしく、無理をして引き受けて失敗した例は世間にいくらもある。
 私の方でも店が繁昌し、製品が少し評判になって来ると、学校その他から四時折々の催しにつけて売店の勧誘を受けるようなり、中には前々からの関係で断りにくい場合もあったが、私は店にそれだけの余力がないことを話してお断りし、その他の臨時の註文も店の製造能力から考えて、無理と思われるものは辞退し、いつも地道に店頭のお得意第一と心がけて来た。店も多い中に特に自分のところへ御註文下さるとあっては、たとえ無理をしてもお受けせねばならぬと思うのが人情であり、またせいぜい勉強して先様のお間に合わすということも平常の同情に報ずる道であって、それを思えばつい店員を励まして非常時的努力を試みたくもなるのである。だが人間はそんなに無理の利くものではない。註文の時間に後れるとか間に合わせの品が出来るとかして、とかく不成績に終り、その上店売の製品には手がまわらなくて、せっかく出向いて来て下さったお客様に、あれもございませんこれも出来ませんでしたという不始末になる。人の能力に限りのあることを思えば、かような結果はただちに予想されるのであって、したがって無理は出来ないということになるのである。
 私のところの経験によると、人は緊張すれば一時的には、平常の働きの五割増くらいまでの仕事をすることが出来るが、それ以上を望めば必ず失態を生じ、またその時は何とかなっても、後になって疲労が出て著しく能率を減ずる結果になったりする。もっとも世間には五割増どころか、いざとなれば平日の二倍も三倍もの仕事を無事に仕上げることが出来るという者がある。しかしその人が緊張時において本当に平日の二、三倍の仕事が出来たとすれば、それは平日充分の能率をあげていなかった証拠であって、それこそ大いに研究を要するところである。
 この特別勤労の五割増も、精いっぱいの働きからさらに五割の力をしぼり出せるというのではなく、平日の働きが自ずから調和のとれた働きである時に初めてそれだけの緊張を予想することが出来るのであって、解りやすい例でいえば、一様に何時間労働という中にも、米国の工場における八時間は、機械が主になっていて、人は機械に従い、機械につれて速力的に働かねばならぬのであるから、自主的の労働と大いに趣きを異にし、常に緊張そのものであらねばならない。そうして彼方ではこの緊張した労働の限度を八時間としているのであって、日本のまだそれほどに機械化しておらぬ我々商店の労働をこれに較べると、彼の八時間はこれの十二時間とほぼ匹敵するであろう。それゆえ一週に一日くらいは大いに緊張して平日の五割増くらいの仕事をするのに困難はなく、したがって翌日の仕事にたいして影響するほどのこともない。それゆえ臨時の仕事を引き受ける場合は平日の五割増程度に止め、それ以上欲張ることは慎しまねばならない。
 ゆえに能率が平均して向上するのでなければ、店の売上げが全体的には増加しても、最高最低の差が甚だしくては経済的にはかえって安心出来ないのであって、高低の差の少ないことが最も望ましい。理想としては売上げが毎日平均し、したがって店員の働きも平均されるのをもって上々とする。しかし商売はお客様次第、こちらでどんなに平均しようと望んでも、売れる日と売れない日があり、平均の成績は望むべくしてじつはとうてい得られるものでないが、せめて平日を基準として最高五割増、最低三分の二を下らぬよう経営の安全を計るべきである。

    日露戦役当時の思い出

 ここにまた日露戦争当時、軍用ビスケット製造の話がある。日露の戦端が開かれた明治三十七年は、私がパン屋になって第三年目、ようやく少し経営にも道がついて、おいおい自家独特の製品を作り出そうと研究怠りなき頃であった。国内は軍需品製造で大小の工場が動員され、軍用ビスケットの製造に都下の有力なパン屋が競って参加し、一時非常な景気を呈した。納入価格はたしか九銭二厘であったと思うが、平均一店一日の製造高が五千斤にも上るという状態であったから、その利益はおよそ一割と見て毎日四十五、六円を下らぬ計算であった。
 当時私の郷里長野県選出の代議士で川上源一という人があり、ある日店に来て仕事の様子を見て、『君もこれだけの工場を持っているのだから、一つ軍用ビスケットを製造してはどうだ、関係当局の方は私が斡旋する』と言って勧められた。私は川上氏の好意を感謝したが、『いや私はまだ素人です、軍用ビスケットの製造は私には大仕事すぎます』と言い、手を出す気のないことを答えた。
 川上氏は『それは惜しい、今は二度と得難い飛躍の機会だ、勇気を出して是非やって見るよう』と再三推し勧められたが、私はやはり従わなかった。自分のような経験の浅いものがそういう離れわざを試みるのは全く僭越の沙汰だ、きっと成功しない、とほんとうにそう考えていたからである。
 川上氏は私の頑固なのに呆《あき》れて帰られたが、当時そういうよい手蔓《てづる》がありながらこの仕事に乗り出さぬというのは、あまりに臆病すぎる話であったかも知れない。実際この製造に参加した店々はその後も毎日莫大な利益を上げ、職人の給料なども一躍三倍という素晴しい景気を見せて、その上納入数量はますます増加する、どこまで進展するか知れぬという有様であった。が、間もなくこの仕事の成行きを見るに及んで、私はやっぱり間違わなかったことを知った。軍用ビスケットの需要が大きく、製造工場が争うて原料を吸収する結果、原料はついに一割五分高となり、ビスケットを入れて満州に送る箱材料の松板は三、四割高、箱の内張りのブリキ板と燃料の石炭は一躍して二倍という暴騰であった。
 さてこうなって見ると、初めのうちは毎日数十円の利益を見て有頂天になっていたものが、今度は反対にその利益を吐き出して欠損を補い、それも出来なくなると、何しろ勢いに乗じて工場を拡張していただけに打撃が大きくて、破産また破産、参加した七、八軒が揃ってじつに気の毒なことになってしまった。ビスケットばかりでなく、他の食料品や酒類の納入者もだいたいパン店と同様の悲運に陥った。私ももしあの時手を出していたなら、これら先輩同業者と同じ失敗をし、中村屋も破産したに違いない。誘われながらこれを免れたのは何という幸運であったか。

    新菓発売のよろこび

 さらに開業第三年目の思い出の中には、新案クリームパンとクリームワップルの二つがある。私はかねて中村屋を支持して下さるお得意に対し、これはと喜んでもらえるような新製品を何が
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