かの心配はなく、ある程度の売上げは当てにしてよかったのである。けれどもそこに危険がある。店が売れているのに失敗したという先の主人中村萬一さんの二の舞いを、うっかりすれば我々が演じることになるのである。ことにそちらは玄人こちらは素人、いっそう戒心を要することであった。
 そこで私は中村さんがこの店を手離さねばならなくなった失敗の原因を、店の者にも質し、人からも聞き、また自分でも周囲の事情に照して考えて見た。すると、先主人中村さんは商売にはなかなか熱心であった、お内儀《かみ》さんもしっかりしていたと誰もが皆言う。それがふと米相場に手を出し、ずるずるとそちらの方に引張られて行って損に損を重ね、とうとう債鬼に責め立てられて店を離さねばならなかった。相場は魔物だ、中村さんも魔物に憑《つ》かれてやりそこなった、と世間の人々は言うのであった。しかしなおよく聞いて見ると、この夫妻は商売に熱心ではあったが、だいぶ享楽的であった。朝も昼も忙しいが、その間にも肴《さかな》を見つくろっておくことは忘れず、日が暮れれば夫婦で晩酌をくみ交して楽しむ。そういう時雇人たちは自然片隅に遠慮していなければならなかった。むろん美食は自分たちだけのことであって、職人や小僧女中たちはいわゆる奉公人並みの食事、昔からある下町の商家のきまりともいうか、とにかくこの差別待遇で、万事に主人側と雇人との区別がきちんとしていた。
 それから夫妻とも信心家で、二十一日は川崎の大師様、二十八日は成田様、五日は水天宮様、というふうに、お詣りするところがなかなか多い。むろん中村さんとしては商売繁昌をお願い申しに詣るのであって、これも商売熱心の現れには違いないが、同時に楽しみでもあって、夫婦ともその日は着飾って出かけて行った。いったいにみなりを構う方で、流行に応じて着物を拵えていた。
 これでは主人夫婦の生活費と小遣いに店の売上げがだいぶ引かれ、一方雇人たちは粗食に甘んじて働かねばならぬ。しごく割のわるい話である。
 ことに相場に手を出してからは、無理なやりくりで店の原料仕入れも現金買いは出来なくなり、すべて掛け買いで、それも勘定が延び延びになるから、問屋も安くは売らない、少なくも一割くらいは高く買わされていた。そんな高い原料を使い、おまけにそういう暮し方をしていたのでは、少々店が売れたところで立ち行く筈はないのである。
 我ら夫婦はこの先代の失敗のあとを見て、互いに戒しめ、
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営業が相当目鼻のつくまで衣服は新調せぬこと。
食事は主人も店員女中たちも同じものを摂《と》ること。
将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
原料の仕入れは現金取引のこと。
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 右のように言い合わせ、さらに自分たちは全くの素人であるから、少なくとも最初の間は修業期間とせねばなるまい。その見習い中に親子三人が店の売上げで生活するようでは商売を危くするものであるから、
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最初の三年間は親子三人の生活費を月五十円と定めて、これを別途収入に仰ぐこと。
その方法としては、郷里における養蚕を継続し、その収益から支出すること。
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 この案を加えて以上を中村屋の五ヶ条の盟とし、なにぶん素人の足弱であるから慎重の上にも慎重を期して、いわゆる士族の商法に陥らぬよう心がけるとともに、店を合理的に建て直すことに力を注いだ。
 私も妻も衣食のことには至って淡泊で、享楽を求める気持もないから、これらの条々に従うのにさしたる無理もなく、かえって店員たちと同じに生活し、いっさい平等に働くところに緊張があり大いに愉快を感じるのであったが、困るのは現金仕入れの一条であった。
 当時の私としては借金して店を買ったのが精いっぱいで、開業早々あとには何程の所持金もない。さればとて郷里の両親に送金を頼むということも出来なかった。病気療養のために上京した年若い夫婦がそのまま東京に止まるさえ不都合というべきに、いわんや全く無経験の商売に手を出すなど危険千万、両親から見れば呆れ果てたことであったに違いない。頼んでやっても送ってくれる筈はないのである。私たちとしてもむろん自力でやって行きたかった。
 幸い子供の貯金がまだ手をつけずにあった。私どもは子供が生れた時から、将来教育費に当てるつもりで少しずつ積んで行き、こればかりは自分の所有にないものとして考えていたのであるが、見ると三百円になっている。無心の子供に対して勝手なようで気が引けたが、一時これを流用することにして現金仕入れを実行した。
 おかげで原料が安く手まわり、一方雇人たちも今度の主人の真剣さを理解してくれて皆々気を揃えて働き、それに我々の生活費を見込まぬという強味もあって、製品ははるかに向上し、これまでより良い品が売れることになったのである。
 すると有難いもので店の売上げは日に日に上向き、間もなく二、三割方の増加を示すようになった。こうなると五ヶ条の最後の一つ、国元の養蚕収益から支出するということは要らなかった。どうやら一個のパン屋として、苦しいなりにも独立自営の目途がついたのであった。
 私の母校東京専門学校の大学昇格資金に、金壱百円を寄付することが出来たのは、たしかそれから一年後であった。まず最初の三年計画が一年で行われたような結果であった。

    コンミッション排斥

 書生上がりのパン屋というので当時は多少珍しかったものか、婦女通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、書生パン屋と題して大いに社会に紹介された。
 この記事が出ると、今まで知らずにいた人も『ははあ、中村屋はそういうパン屋か』とにわかに注意する。大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。
 そんな関係からだんだん学生さんに馴染《なじみ》が出来て、一高の茶話会の菓子はたいてい中村屋へ註文があり、私の方でも学生さんには特別勉強をすることにしていた。
 ある日その一高の学生さんが見えて、一人五銭ずつ八百人分の註文があった。ところがその後へ小使いが来て『今日寄宿舎に入る四十円の一割を小使部屋へ渡してもらいたい、八人で分ける』という。私は、学生さんから直接の註文であること、また学生さんのことなのですでに特別の勉強をしてあることを話し、小使いの要求に応じる筋はないと言って断った。
 すると彼は意外な面持《おももち》で『他の店ではどこでも一割出す習慣になっている、それをこの店だけが出さぬとあれば、容器《いれもの》などはどんな扱いをするか保証出来ないが』そこで私は『それも宜《よ》かろう、君らは学校から俸給を貰っていて学生の世話が出来ないというのであれば、君らの希望通り、明日から学生の世話をしなくともよいように取り計って上げよう』早速学校の当局に出向いていまの言葉をそのままに話して来ようと強硬な態度を見せたところ、その小使いは驚いて逃げて帰った。あらたまって飛んで来たのが小使頭で、彼は前の小使いの失言を詫び入り、どうぞ内聞に願いたいと頼むのであった。私も気の毒になって、それではと菓子一袋ずつを与えて帰した。昔の一高の小使いなどというものは、出入り商人に対してこの通り威張ってコンミッションを取ったもので、今日から見ればまさに隔世の感がある。
 コンミッションの問題はほかにもあった。中村屋も最初のうちは卸売りをした。本郷から麹町隼町、青山六丁目辺りまで、毎日小僧が卸しにまわる。そのうち大手町の印刷局へ新たに納入することになったので、その届け役を私が引き受けた。雨の日雪の朝、一日も欠かさず、本郷から神田を通って丸の内まで、前垂掛けで大きな箱車を曳いて、毎朝九時には印刷局の門をくぐった。
 それが約一年ほどつづいたが、もうその頃かつての早稲田の学友の中には、官吏の肩書を聳《そび》やかしているものもあり、その他の知人間でも私のことはだいぶ問題になって『奴も物好きな奴さ』と嘲笑して終るのもあれば、『何だ貴様は小僧のようなことをして、我々卒業生の面汚しじゃないか』などと、途中出会って面詰するのもある。むろん私としては、別にきまりがわるいとも辛いとも思うことではなく、むしろ友人には解らぬ快味があったのである。
 とにかくそうして私は印刷局通いをしたが、その最初の日のことであった。『オイオイ、出門の空車は必ず我々の検査を受ける規則になっている、無断の通行はならんよ』そう言って私を呼び止めた門番氏は、次には声をやわらげて愛想笑いさえ見せて『どうだね、中村屋は有名だから、職工らも今日から良いパンを食べられて喜ぶだろうな。ところで君の店には鷲印ミルクはあるかネ、明朝一ダースだけ頼む、家内がお産をして乳不足で困っているから、忘れずに』
 私は門番氏の月給はいくらか知らなかったが、鷲印ミルクとはちょっと解し難いことであった。当時鷲印ミルクは舶来の最上品であって一個三十銭(今日の一円二十銭見当)の高価で、なかなか贅沢品と見られていたものである。
 翌朝、私は試みに一缶だけ持参すると、彼はすこぶる不興気に声をあららげて『君、一ダースの註文だよ、たった一缶とは不都合じゃないか』私もそこで当意即妙に、『私は毎日来るのだから、新しいの新しいのと届ける方がよいでしょう。ところで代価ですが、私の方は現金主義ですから三十銭頂戴しましょう』
 彼は代価は明日残り十一個分と引換えに渡す、という。私は前の代金を払われぬうちは残りを持参せぬというわけで、次の日から毎日この三十銭を請求した。彼が別の門に出ている日はわざわざそこまで請求に出かけて行った。何でも一月あまり請求しつづけたと思う。これが他の門番はもちろんのこと、その他の間にも評判となって、さすがの彼も兜をぬいで渋々《しぶしぶ》三十銭を払い、『あとはもう要らないよ』と悲鳴をあげたことであった。それ以来他の門番衆も私にだけは決して註文しなかった。彼らは、新しく出入りする商人に対してはきまって何かしら註文し、代を支払った例がない。彼らはこれを役得としているのであった。つい弱気な商人たちはそれと知りつつも煩《うる》さいので求められるままに持参し、十人ほどの者から三、四円ずつの損害を蒙らぬものはなかったそうである。もちろん私はそういうことは後で聞いて知ったのだが、どこに行っても万事この通り、私は決して彼らの不正には屈しなかった。
 その私の曳いて行く箱車には、もと陸軍御用の文字が入っていた。それは先の中村萬一さんが陸軍に食パンを納めていたからで、御用という字が一種の誇りにもなったのであろう。私は譲り受けるとすぐこの御用の字を塗りつぶしてしまった。私は御用商人が嫌いであった。明治維新以来、政府と御用商人との切っても切れない因縁は、いまさらここに事新しくいうまでもない。今日天下の富豪となり授爵等の恩命に浴した人々も、その源に遡れば多くはこの御用商人として政府の御用を達し、同時に特別の恩寵に浴して今日の大を成したものが多いのである。私は御用商人必ずしも非難すべきものとは言わない。そこには奉公の精神をもって立派にその務めを果たしたものもあろう。しかしとにもかくにも御用商人と特別の恩寵とはつきものであって、御用商人がその恩寵に対して、一種の卑屈と追従に陥るのもまた免れ難いことであると思う。それゆえ私は大きくとも小さくとも御用商になることが嫌いだ。兵営の酒保に堅パンを納入したパン店が、時々当番の下士の小遣いを調達させられたことも耳にしたし、その他大会社に品物を納めるとては、なおいっそうの奉仕を強要されたことも聞いている。一高の小使いの上前取りもそれだし、印刷局の門番の鷲印ミルクもその例に洩れないのである。私はそれらのところへパンを納入しても、あるいは大量註文を受けても、御用商人的な考えは少しも持っていないのであったから、彼の無法な要求には断然従わなかった。またたとえそういうことで得意を失うとしても未練はないと考えていた。爾来《じらい》我が
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