すがは東京だと、私はその機敏さに舌を巻いた。
 次に眼をつけたのがパンであった。パンは初め在留の外人だけが用いていたのがその頃ようやく広まって来て、次第にインテリ層の生活に入り込みつつあった。けれどもこのパンが一時のいわゆるハイカラ好みに終るものか、それとも将来一般の家庭に歓迎され、食事に適するようになるものか、商売として選ぶにはここの見通しが大切であった。これは自分らで試してみるが第一と、早速その日から三食のうちの二度までをパン食にして続けてみた。副食物には砂糖、胡麻汁、ジャム等を用い、見事それで凌いで行けたし、煮炊きの手数は要らぬし、突然の来客の時などことに便利に感じられた。
 こうして試みること三ヶ月、パンは将来大いに用いられるなという見込がついた。もうその年も十二月下旬であったが、萬朝報の三行広告に「パン店譲り受け度《た》し」と出して見ると、その日のうちに数ヶ所から、買ってくれという申し込があった。がその中につい近所帝大前の中村屋があったのにはびっくりした。それは私がこの三ヶ月間毎日パンを買っていた店で、しかも場所柄なかなか繁昌していたから、まさかその中村屋が売りに出ようとは思いもよらなかったのである。話をして見ると、商品、竈、製造道具、配達小車、職人、小僧、女中、といっさいを居抜きのまま金七百円で譲ろうという。
 さてその金策であったが、幸い同郷の友人望月幸一氏に用立ててもらうことが出来て、首尾よく交渉成立し、九月以来の仮寓を引き払っていよいよ中村屋に移ったのは、その年も押し詰った十二月三十日であった。その日から私はパン屋となったのである。
 これで中村屋という屋号の由来も解ってもらえるであろう。中村屋はこうして偶然に譲り受けた名であって、世間で想像されるように相馬中村の因縁があってつけたものではないのである。
 さてその本郷の中村屋だが、私はそこで明治四十年まで営業した。新宿に移転後は、私にとり最初の子飼いの店員であった長束実に譲り渡した。惜しいことにこの長束は早く死んだので、店はまた他に譲られたが、現在もやはりそこに中村屋と称して存続している。

    五ヶ条の盟

 中村屋は相当に売れている店を譲り受けたのであるから、我々にとっては全くの新天地でも、店としてはいわゆる代がわりしただけのことであった。新店を出したのとは違って、初めから売れるか売れないかの心配はなく、ある程度の売上げは当てにしてよかったのである。けれどもそこに危険がある。店が売れているのに失敗したという先の主人中村萬一さんの二の舞いを、うっかりすれば我々が演じることになるのである。ことにそちらは玄人こちらは素人、いっそう戒心を要することであった。
 そこで私は中村さんがこの店を手離さねばならなくなった失敗の原因を、店の者にも質し、人からも聞き、また自分でも周囲の事情に照して考えて見た。すると、先主人中村さんは商売にはなかなか熱心であった、お内儀《かみ》さんもしっかりしていたと誰もが皆言う。それがふと米相場に手を出し、ずるずるとそちらの方に引張られて行って損に損を重ね、とうとう債鬼に責め立てられて店を離さねばならなかった。相場は魔物だ、中村さんも魔物に憑《つ》かれてやりそこなった、と世間の人々は言うのであった。しかしなおよく聞いて見ると、この夫妻は商売に熱心ではあったが、だいぶ享楽的であった。朝も昼も忙しいが、その間にも肴《さかな》を見つくろっておくことは忘れず、日が暮れれば夫婦で晩酌をくみ交して楽しむ。そういう時雇人たちは自然片隅に遠慮していなければならなかった。むろん美食は自分たちだけのことであって、職人や小僧女中たちはいわゆる奉公人並みの食事、昔からある下町の商家のきまりともいうか、とにかくこの差別待遇で、万事に主人側と雇人との区別がきちんとしていた。
 それから夫妻とも信心家で、二十一日は川崎の大師様、二十八日は成田様、五日は水天宮様、というふうに、お詣りするところがなかなか多い。むろん中村さんとしては商売繁昌をお願い申しに詣るのであって、これも商売熱心の現れには違いないが、同時に楽しみでもあって、夫婦ともその日は着飾って出かけて行った。いったいにみなりを構う方で、流行に応じて着物を拵えていた。
 これでは主人夫婦の生活費と小遣いに店の売上げがだいぶ引かれ、一方雇人たちは粗食に甘んじて働かねばならぬ。しごく割のわるい話である。
 ことに相場に手を出してからは、無理なやりくりで店の原料仕入れも現金買いは出来なくなり、すべて掛け買いで、それも勘定が延び延びになるから、問屋も安くは売らない、少なくも一割くらいは高く買わされていた。そんな高い原料を使い、おまけにそういう暮し方をしていたのでは、少々店が売れたところで立ち行く筈はないのである。
 我ら
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