ようになった。
 当時栃木県那須野ヶ原に、本郷定次郎氏夫妻の経営する孤児院があった。これは明治二十四年の濃尾大震災に孤児となった子供を収容するために、同氏が全財産を投じ一身をなげうって設立されたものであった。私はかねてこの事業に深く同感していたことではあり、ちょうどそこで養蚕をやると聞いたので、自分の製造した蚕種を寄贈し、どうかよい成績をあげてくれるようにと願っていると、やがて本郷氏がはるばると信州に訪ねて来られて、私の贈った蚕種が非常な好成績をもたらしたことを報告された。私は氏の丁重な訪問を感謝し、かたがた一度氏の仕事を見たいと思ったので、その冬の閑散期を利用し、那須野ヶ原を訪ねて氏の孤児院を見舞った。
 ところがここで私は意外な光景を見た。当時その孤児院の仕事は相当に聞えていて、世間の同情も厚いことであるから、院児たちは氏の庇護の下に不自由なく暮しているであろうと思いのほか、食べたい盛りの子供たちに薄いお粥が僅かに二杯ずつより与えられないという窮状であった。子供たちが本郷夫妻に取りすがって『も少し頂戴よ』『頂戴よ』と哀願するのに、氏はそれを与えることが出来ない。私はこれを黙視するに堪えず、幸いいま自分には暇があることでもあり、少しでも孤児院のために義金を集めることが出来たらと考えて、まず東北仙台に向かった。
 何故仙台に行ったかというと、仙台にはその頃東北学院長として、基督教界の偉人押川方義氏が居られた。私は早稲田在学時代、牛込教会に通うて基督教を聴き、大いにその感化を受けて、信州に帰郷後は伝道をも助け、禁酒禁煙の運動をも行っていたほどで、まだ面識はなかったけれど、押川先生には大いに信頼するところがあった。
 幸いにも私が仙台に入った日は日曜日で、ちょうど仙台教会に押川先生の説教があった。私は汽車から降りたままで教会に行き、先生の説教の後を受けて、孤児院の窮状を会衆に訴えた。どんなふうに話したかおぼえていないが、反響は意外に大きかった。大口の寄付の申し出もあり、相当の額が集まったので、私は孤児院のためじつに嬉しく、自分の誠意の容れられたことを深く感謝した。
 この寄付金募集が機会となって、その後押川先生を初めその教会の人々と親しく交わるようになり、やがてこれが旧仙台藩士の娘、星良を妻に迎える縁となったのである。良は、彼女がその著「黙移」の中で言っている通り、押川先生の教え子であり、先生の高弟島貫兵太夫氏は兄弟子に当り、幼年時代からその懇切な指導を受けたものであった。すなわち押川先生と島貫氏の媒酌で、明治三十年、私の許《もと》に嫁いで来たのである。式は私が上京して牛込教会で挙げた。私は二十八歳、良は二十二歳であった。
 良は最初田園の生活をよろこび、私の蚕種製造の仕事にもよき助手として働くことを惜しまなかったが、都会において受けた教養と、全心全霊を打ち込まねば止まぬ性格と、それには周囲があまりに相違した。その中で長女俊子が生れ、次いで長男安雄が生れた。するとまたその子供の教育が心配されて来る。良はとうとう病気になったので、私は両親に願って妻の病気療養のため上京の途についた。俊子は両親の許に残し、乳飲子の安雄をつれ、喘息で困難な妻を心配しながら、徒歩で十里の山道を越えて上田駅に向かった。時は明治三十四年九月のことである。
 東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒《い》えた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤めぎらいな私であるから、では商売をしようということになったのである。

    パン屋を開く

 さて商売をするとはきめたが、商いどころか、日々入用のものを買うことすら知らぬ我々である。何商売をすればよいものか、軽々しく着手すれば失敗に終るにきまっていた。これは素人の弱味ということに充分の自覚を持ってかからねばならぬと思われた。そう考えると、昔からある商売では、玄人の中へ素人が入るのだから、とうてい肩をならべて行かれそうもない。むしろ冒険のようには見えても、西洋にあって日本にまだない商売か、あるいは近年ようやく行われては来たが、まだ新しくて誰が行ってもまず同じこと、素人玄人の開きの少ないという性質のものを選ぶのが、まだしもよさそうであった。
 そこで思いついたのが西洋のコーヒー店のようなものを開くことであった。上京後仮りに落着いたのが本郷であったから、ちょうど大学付近で、この店はいっそう面白そうに考えられた。そうだ、それがよかろうと夫婦相談一決して、いざ準備にかかろうとすると、もう一足お先に、本郷五丁目青木堂前に、淀見軒というミルク・ホールが出来てしまった。残念ながら先を越されて、私はもう手の出しようがなかったのである。さ
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